津島佑子さん 申京淑さん 公開トーク「書くこと、語ること」(2007年7月27日・お茶の水女子大学)


右から申京淑さん、通訳のキム・フナさん、津島佑子さん

日韓を代表する女性作家が「往復書簡」という形で手紙を交わし、日韓それぞれの文芸誌に1年間掲載されました(日本では集英社の「すばる」。)
それらが「山のある家 井戸のある家〜東京・ソウル往復書簡」というタイトルで出版され、刊行記念におこなわれた対談。お茶の水女子大学21世紀COEプログラム「ジェンダー研究のフロンティア」と集英社の共催です。


申京淑(シン・キョンスク)さんは1963年韓国・全羅北道の生まれ。現代韓国の代表的な女性作家です。
2年前に、自伝的小説「離れ部屋」の日本語訳が出版され、すぐに買って読んだのですが、ここ数年来読んだ小説の中でこんなに心を揺さぶられた本はありませんでした。
田舎の農家からソウルの女子高へ進学、そこは昼は工場で働き、夜に学ぶ学校でした。過酷な労働条件、組合の結成と会社との対立、そしてやはり夜学に通う兄と従姉と狭い部屋で暮らす青春。多感な10代の頃、韓国では朴正煕大統領の暗殺事件、光州事件が起こります。
ともすれば絶望的な気持ちになりそうな中、彼女はそのつらさを担任の教師に訴えると、教師は彼女にそれを文章にすることをすすめます。あふれるように出てきたノートいっぱいの彼女の文章を読んだ教師は、「作家になるといい」と励ますのです。


小説は、有名作家になった現在の彼女と、過去の夜学時代の彼女のあいだを往還し、内省的な静けさに満ちた行間には、生きていくことの真摯な姿勢となぜ文章を書かずにはいられなかったかという切実な渇望が伝わってくるのです。


申京淑さんはわたしと同世代。同じ頃わたしは、親の庇護のもとでのほほんとした女子高生、女子大生生活を送っており、その頃韓国でこんなに苛烈な生活を同い年ぐらいの女の子が送っていたことに、打ちのめされる思いでした。
ただみんなが行くからと大学に、親に学費を出してもらって進学し、韓国の軍事政権のニュースに心を痛めながらも、やはり平和な日本の女の子には対岸の出来事でした。「離れ部屋」は、そんなふやけたわたしのちゃちな「青春」の甘さを再確認させながらも、彼女の生きることへの模索こそが「青春」そのものであるような気がしました。


その申京淑さんのお話がナマで聞ける貴重な機会。
会場のお茶の水女子大学といえば、受験生時代は「全国の才女が集まる、わたしには手の届かない大学」でした(^^;
でも所在地はお茶の水じゃなくて大塚、地下鉄丸の内線茗荷谷駅から歩いて7分ぐらいです。
申さんは、津島佑子さんとは「日韓文学シンポジウム」の開催で親しくなったそうで、日韓の間には政治的な問題が横たわるものの、こうして両国の作家が心を通わせる時代になったことは、とても喜ばしいことだと思わずにはいられませんでした。
なお、通訳は「山のある家 井戸のある家」の翻訳を手がけたキム・フナさんが務めて下さいました。


津島  今回書簡体で文章を書く、という形式は独特のものでした。小説を書くとき、エッセイを書くときの言葉とは違います。
これは申さんへ向けたものであり、韓国の文芸誌の読者に向けたものでもありました。さらに「すばる」に掲載していたので日本の読者も読みます。
日本の習俗について韓国の読者を想定して改めて説明することで、言葉の意味を再発見することでもあったのです。往復書簡という形式を経ることで、常に言葉が動いていてとても新鮮な経験でした。


  津島さんと出会ってからの十数年はとても貴重でした。
お互い翻訳された書物が数冊しかなかったけれど、十数年の信頼関係があったからこその往復書簡の企画だったと思います。
一昨年「離れ部屋」の翻訳が出版されたあと、日本でのインタビューで何がしたいか、と聞かれましたがそのとき「日本の作家といっしょにものが書けたら」と答えたのです。
それが実現し、手紙という形式は決まったのですが、何を書くのかは具体的に決めてませんでした。
それぞれ12回ずつ、偶然、同じ話題を同じ時期に書いたり、こんなに自由にものが書けたのは初めてではないでしょうか。本当にやってよかったと思います。
女性について、家族について、両国の抱えている社会的な問題について、ふたりが共感できたように、両国の読者も共感できたらいいなと思います。
津島さんと話したいことはいっぱいあり、わたしの中ではまだ書簡は続いています。
津島さんにとても信頼感を持てて、幸せな経験でした。


津島  筆一本、いや現在では筆は使いませんからね「パソコン1台」ですか(笑)、それでやっている創作とは孤独な営みで、書いている最中に孤独を感じるのが日常になっています。そんな中で、信頼感があり、利害が絡まない相手に向けての書簡だったので、解放感があり、自分自身も励まされた思いです。
小説を書いていてよかった、と申さんとの出会いで思いました。韓国語はわからないけれど、申さんの文学の精神は理解できます。


  ものを書くというのは、人に助けてもらえない、ほんとうにとても孤独な作業です。でも、それがもの書きの運命。
往復書簡をしていた一年間はしかし孤独ではありませんでした。違う世界を理解して共感できる時間でした。
率直にものが書ける、それが書簡という形式の魅力でもあります。
それから記者のひとから、文芸誌に載った津島さんの書簡がこれまでの彼女の文章とは違う、と言われびっくりしました。それに申さんは、日本の読者が津島さんにしない質問をしてしまった、とも言われたのです。
(注;津島佑子さんは太宰治氏の次女。太宰氏が入水自殺をしたとき、津島さんはまだ1歳。タブーというわけではないが、津島さんご自身は「太宰治の娘」という目で見られるのは好きではないようで、文芸関係者もことさらそれには触れていないような気がする。
ただ、ご本人を拝見するとやはり写真で見る太宰治に実によく似ている。太宰治といえばわたしが女子高生の頃など、文学少女(わたしは全然そうではなかったが)にカリスマ的な人気があった作家だ。いわば「歴史に残る文学者」。その太宰に面立ちがそっくりの津島さんがいらっしゃるのを見るのは、なんとも不思議な感じがした)。


津島  往復書簡を書いているときには、文体については特に意識はしませんでした。夜中にこっそりおしゃべりしているような気持ちとでもいうのでしょうか。
申さんから「お父さんのことを聞かせてください」と言われれば「あなたのお父さんのことも聞かせてね、わたしのことも話しましょう」という感じでした。


  往復書簡を書きながら、お互いの国境が消えていくような感じでした。
津島さんは率直に答えてくださったし、それは共感と理解が前提にあったからだと思います。


津島  15〜20年前だったら互いの「国の違い」を意識して書いていたでしょう。国の中だけで文学が完結しない、そんな時代に書簡=手紙の形式はあっていたのかもしれません。


  一人の作家の経験がそこで終わるのではなく、大きな輪に繋がっていく気がしました。
津島さんの言葉でそれを再認識し、耳を澄まして聴くことが出来ました。何かが起きると、韓国人の見方だけでなく、じゃあ、津島さんはどう思うのかしら、と考えるようになったのです。
ソウルから遠く離れた東京というところに居る人から聞く意見には別のものがあり、それによって冷静に、客観的に見ることが出来ました。
それが津島さんへの尊敬の念に変わったし、弱者やマイノリティーへの愛情を、津島さんとの書簡で改めて考えさせられたりしました。

津島  (現在、津島さんが植民地時代の台湾、申さんが19世紀のフランスを舞台にした小説を創作中なのを受けて)現代だけでなく、時代をずらして創作してみるのも大事だと思います。
文学とは、距離をおいて物事を相対化していく作業です。
ものを書く、というのは言葉にして何か残したい、客観性をもって見つめ直したい、誰かに聞いて欲しい、理解されたい、そういう欲求があるからではないでしょうか。
今回の往復書簡の連載で、翻訳を常に意識して書く、という新しい経験をしました。韓国のカレンダーを机の上に置いていたんですよ。そしたら日本と韓国の祝日が違ったりするんです。
まわりくどい手段ではありますが、言葉を費やしてこそ届くこともある、文学とはそういうものだとも感じました。
申さんの小説は、沈黙に耳を傾け、その中から言葉をすくいあげているような作風、いわば豊かな沈黙を感じます。


申  日韓シンポジウムで韓国語訳の津島さんの作品を読んだのですが、ほかの作品も読みたくてたまらなくなりました。他の日本の作家とは異なる作風を感じます。
「私」という作品は、忘れ去ったことを蘇らせ、遠くから鐘の音が聞こえてくるような感覚です。
ところでわたしがシンポジウムなどで、いつも日本で会っている作家は、韓国では翻訳されていないのです。
(注;韓国では日本人作家では村上春樹が非常に人気があり、ほとんどの作品が韓国語訳されている)。


津島  アメリカなんかでも日本文学の翻訳って谷崎(潤一郎)、川端(康成)からいきなり(よしもと)ばななでしょ?(笑)
文学もやはり翻訳の世界は商業主義なんです。アジアの重要な文学をもっと翻訳してほ
しいですね。


会場には、お茶の水女子大の韓国からの留学生が何人も来ていて、夏目漱石の研究をしているという、いかにも聡明そうな女子学生から、書くということへの妨げはあるのですか、ということと、作者と物語の語り手との関係性について質問が。


津島  妨げ、といったものは特に浮かびません。書くことはわたしにとっては生きることと同質になっています。
自分で自分の書いたものにうっとりするようになったら、それこそ妨げですけど。
作者と語り手ということでいえば、小説の中の語り手という媒介を使うことで、いろんなことがより自由に語れるようになると思います。


  あえて妨げになるとしたら自分自身でしょうか。創作は孤独な日常に入って行くので、そんなときつい怠けそうになる自分が妨げです。
つらいときに立ち直るには、やはり小説を書くという作業になります。
世の中が思い通りになるなら、幸福へ安直にたどり着けるなら、ものを書くことはなかったでしょう。
いろんな作法の小説があるので一言ではいえませんが、葛藤や悩みを作者は描きますが、ピリオドは読者が打つもの、そして波紋を起こすのも読者だと思います。


申京淑さんといっしょに

申京淑さんは、きまじめな女子大生がそのままおとなになったような感じの女性。
幸運にもわたしが持参した著書「離れ部屋」にサインをいただきました。
わたしはとてもあなたの小説に感銘を受けた、とヘタな韓国語でしゃべりたかったのですが言葉が出てこずに、著書を差し出すときに
「チャル プッタクカムニダ(宜しくお願いします)」、サインをいただいたとき、
「テダニ カムサハムニダ」と初心者レベルの韓国語しか口に出来ませんでした(^^;

申さんは韓国本国でももちろん人気の作家なので、会場に来た留学生の女の子は、あこがれの作家と話ができる、ということに感激している様子。
わたしも申さんご本人の話が聴けて、とても充実した1日でした。
申さんと津島さんおふたりの話には幾度も「信頼」「理解」「共感」という言葉が出てきました。
まさに、これらがあってこそ、心が通い合うのであり、それは文学のみならず、日韓関係そのものにも言えることだと感じました。
これを機会にといってはなんですが、若い頃敬遠していた太宰治も読んでみようかな。