| 流山市 陣屋跡をたずねて(2008年6月9日) |
流山市 長岡屋 陣屋跡
| 流山市まで足を伸ばしてきた。 今住んでいる市川市と同じ千葉県ながら、けっこう遠い。 行きは東西線でJRの船橋駅まで行き、東武鉄道野田線に乗り換えて柏へ。 そこから常磐線で新松戸へ向かう。 もっとも、快速に乗ったら新松戸を通過してしまい(!)、あわてて次の松戸駅で降り、 向かいのホームに停車中の我孫子行き常磐線の各駅停車に乗り換えて、新松戸駅まで戻るというハプニングも。 沿線は、畑が多い。落花生の畑だろうか。果樹園も多く見受けられる。 千葉県って、田舎のほうに行っても水田をあんまり見かけないような気がする。 関東ローム層なので、稲作よりも畑作のほうが適しているからだろうか。 なぜに流山市まで行ったかというと、勘のいい方はおわかりかもしれないが、「新選組」ゆかりの旧跡がここにあるのだ。 新選組は、慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸へ戻る。2月16日、西郷隆盛を参謀長とする官軍も江戸へ。近藤勇らは、甲府で迎え撃つため甲陽鎮撫隊を結成し、3月1日江戸を出発。ところが官軍は3月4日に甲府入りし、6日に近藤勇らは甲州勝沼で激突。近藤・土方歳三らは1日で再び敗走の旅を続ける。 新選組残党が流山入りしたのは3月20日頃。近藤勇が本陣に選んだのは酒造家長岡屋だった。 しかし、流山の地にも官軍の手が伸びる。 戦火で流山の人々を巻き込むのを懸念した近藤勇は、もはやこれまでと覚悟を決め、自首。 捕らえられた近藤は4月25日、板橋で処刑された。享年35歳。 流山は、近藤勇と土方歳三の永訣の場となったのだ。 JR常磐線・新松戸駅を降りて総武流山電鉄に乗り換える。 JRの駅とは直接つながっておらず、駅からちょっと歩いたところが「幸谷(こうや)」駅。 ちいさな駅舎で、改札を通ろうとしたら、首都圏ではどこでも使えるはずのIC交通カードの「PASMO」も「Suica」も使用できない。財布の中には5千円札しかなかったので、駅員さんに両替してもらって、自販機で切符を買う。 最近は電車に乗るときはいつも「PASMO」を使っているので、自販機で切符を買うなんて久しぶりのような気がする。 流山電鉄は単線で、停車の駅舎はどこもさびれた感じがするし、いかにも田舎のローカル私鉄、という感じ。 ウチの配偶者の故郷を走る、シマテツこと「島原鉄道」を思い出させる。 でも4両編成だし、「流星」「明星」「なの花」「青空」などと列車に愛称まで付き、ヘッドマークもちゃんとつけて走っているところが、やっぱり「首都圏」のローカル線かなあ。 すぐに終点の流山に到着。 駅前に出て、あまりの物寂しさにびっくり。 駅のすぐそばに市役所もあるというのに、流山駅前には、金物屋が見えるぐらいで、なんにもない。 わたし、喫茶店とかファストフード店ぐらいはあるかと思っていたのに。 ううむ。これじゃ、わたしの実家のある、福岡県の奥地みたいだなあ、などとひとり思いつつ、目的地の陣屋跡を目指すが、方向音痴のわたしでも迷う間もなかった。 駅前の道路を左折して歩き出してまもなく、「近藤勇陣屋跡入り口」の看板が出てるのが目に入り、路地を歩けば、例の新選組の「誠」ののぼりが出ているのが見える。陣屋跡はすぐそこだった。 長岡屋は当時、流山きっての豪商だった、という。 大きな古びた蔵の前には、由来を示す掲示板や碑も建てられている。 残念ながら中には入れないが、時代を感じさせる格子窓のむこうに、かつての新選組の隊士たちの無念の思いがいまだに息づくかのようだった。 ここで近藤と土方は別れ、再び相まみえることは叶わなかったのだ。 そして土方歳三が近藤のあとを追うように戦死したのは、関東の地ではなく、遠く海を渡った北の国、函館。 奇しくも近藤と同じ享年・かぞえの35歳だった。 建物のすぐ前は狭い路地なので、ぐいっとうしろに下がることができず、上記のような写真になってしまった。 |
チンチラかな? ふかふかのにゃんこ
| ところで、陣屋跡を見に行く途中に動物病院があり、中をのぞくと、真っ白のふかふかした毛足の長い猫がいるではないか。待合室の、玄関マットの上に座り、おとなしくしているので、この病院で飼っている猫らしい。 チンチラだろうか。 気になって帰りにものぞいてみたが、わたしのほうをじっと見て寄ってくる。 ひとなつこそうなにゃんこだったが、勝手に中に入るわけにもいかず、ガラス戸ごしに写真を撮ってきた(わたしの足が写りこんでいる)。さわってみたかったですね。 復路は、流山電鉄で幸谷駅まで戻ると、今度はJR新松戸駅から武蔵野線で西船橋へ帰ってきた。 小雨はあったものの大降りにならずにすみ、梅雨の中の、ミニ旅行でした。 |