いつか「また、会えたね」と言える日まで〜古田敦也引退試合(2007年10月7日・神宮球場)


神宮球場に掲げられた垂れ幕

去る9月19日に正式に選手引退・監督辞任の退団会見をした古田プレイングマネージャー
10月7日に本拠地最後の試合で「引退試合」をおこなう、と球団発表があったので、この日はなんとしても神宮球場に駆けつけるつもりでいた。
しかし、「古田の神宮最後の姿」ということで前売りチケットはすぐに完売。当日券の発売もないそうだ。
このところ神宮に観戦に行ってもスタンドはかなり空いていて、いつも当日券で入場していたわたしは、つい油断していてチケットをとりそこねてしまった。ううっ、ファンたるもの、なんという不覚!


仕方なくヤフーのネットオークションをのぞくと、大量に10月7日の試合のチケットが出品されている。
だが、ためしに入札してみたものの、次々に値がつりあがり、わたしには手が出ない。
それにこういうところにチケットを出している人間は、別に野球が好きでもなんでもなく、ただ転売の利益目的で大量に買い込んでいるだけだ。そんな人間から買うのもしゃくにさわる。


とは言うものの、チケットが手に入らないことにはどうしようもない。
友人から金券ショップもあたってみては?と聞き、JR新橋駅前のビルまで出かけてみた。ここには数多くの金券ショップが入店している。
何軒も見て廻った挙句、やっと指定席2枚が売りに出ているのを見つけた。
3500円? え、どうしてそんなに安いの? と思ってよくよく見ればなんと3万5千円だった!
出しかけた財布をあわててひっこめる。そういえば以前福岡でも、ダイエー対阪神の日本シリーズで4枚10万円でチケットが金券ショップに並んでいるのを見て驚愕したことがあった。


人気の試合やコンサートになればチケットが取りにくく、すぐに高値でネットや金券ショップに出回るのが世の常。
ファンの足元を見て阿漕だよなあ、と怒ってみるがしょうがない。
新橋からの帰り、足どりも重く、ほとんどあきらめかけていた。


ところがその数日後、18年来のつきあいのヤクルトファン仲間のYさんから、同じファン同士のHさんを紹介され、定価で10月7日のチケットを譲っていただけることになったのだ!
Yさんも熱心なファンなのだが、当日は仕事が入っていてどうしても見に行けない。Hさんもいっしょに行くはずだった奥様がお仕事の都合で行けなくなったと言う。
YさんやHさんの奥様にはたいへん申し訳ないのだが、こうしてわたしはご好意に甘え、ほんとうに運良く引退試合のチケットを手に入れることが出来た。ファンつながりとはありがたい。Yさん、Hさんには感謝の気持ちでいっぱいだ。ありがとうございます!


10月7日のスコアボード

10月7日当日は、配偶者の秋葉原での買い物につきあったあと、Hさんへのお礼のお菓子を買おうと、日本橋の高島屋デパートへ。
その後配偶者と別れて、ひとりで地下鉄銀座線に乗って神宮球場へ向かう。
到着すると、球場前はすでにすごい混雑で、入場整理が行われている。こんなことは初めてだ。
いつもはスタンドに空席が目立つのに、ほぼ満員の入り。チケットは即完売というから当然。
空いた席は、転売目的で買った連中がさばききれなかった分だろう。なんとしてもこの試合を見たいファンだっているというのに・・


試合は、昼間の六大学野球が長引いた関係で、10分遅れの18時半から開始。相手は広島カープ。
先発メンバーがアナウンスされるとき、青木の名が出てこないのでいぶかっていたら青木はなんと4番だ。
先発投手はヤクルトが石川、広島が長谷川
本拠地最後とあって、きょうは古田は先発5番で出場。その名がコールされるだけで、スタンドが揺れるように大きくどよめき歓声が球場中に鳴り響く。
とうとうこの日がやってきたんだな、とわたしも感無量である。


古田がマスクをかぶって守備につく姿も、見るのはもう最後なのだ。
しっかり目に焼き付けようとユニフォーム姿をひたすら凝視する。
しかし、初回から立て続けに梵(そよぎ)に盗塁を許してしまう。さすがにかつての強肩は見られない。
石川も立ち上がりから打たれ、はやくも初回に3失点。


古田は2回には、ヒットではないものの、犠打で青木を進塁させることに貢献。そのあとリグスの犠打で青木が還って1点を返す。
とにかく古田が登場すると、割れるような声援が起こる。それと場内のフラッシュがものすごい。


ガイエルのランニングホームランという珍しいシーンもあったが(実際に球場に観戦に行ってランニングHRを見たのは初めてである)、5回に石川は新井に2ランを打たれ、試合は広島ペース。
石川は5回までで降板、その後、木田、シコースキー、そして石井一久、最後には高津と、かつて古田と「黄金バッテリー」を組んだ投手たちが次々に登場してスタンドを沸かす。
古田は4度打席がまわってきて、そのたびに大声援を受けるのだが、残念ながらいずれも凡退。
広島も最下位には落ちたくないだろうし、けっこうガチンコの試合展開。
9回には広島の前田、緒方も代打で登場して、ヤクルトファンも沸く。


古田の独特のどこか踊るようなバッティングフォームを見られるのも最後だよなあ、と思うと切なくなる。
広島も、今季限りの引退を表明している、佐々岡投手を登場させて、古田との対決を演出してくれた。
歳は違うものの、古田と佐々岡は1990年の同期入団組で、アマ時代にもバッテリーを組んだことがある。
ああ、こうしてひとつの時代が終わるんだなあ。黄金の90年入団組でも現役を続けているのはわずかになってしまった(90年組の目玉だった野茂英雄は、南米のウインターリーグに参加してまだガンバッている)。
きょうはヒットが出なかったので、結局わたしがさいごにナマで見た古田のヒットは、昨年の交流戦、福岡ドームでの対ソフトバンクでDHとして出場して打ったヒットである。


佐々岡投手との対戦

試合は6対3で破れ、引退試合に花を添えることは出来なかった(ホントに残念・・・)。
試合終了後、古田のセレモニーに移る。
選手としてはだんだんと衰えてはいたものの、監督はまだ2年目、退団会見時の絶句した時間の長さや涙を見るにつけ、ヤクルトの退団に際しては無念の思いが多々あったのでは、と思われてならないのだ。


スコアボードのスクリーンにビデオ編集された「古田の18年間の軌跡」が映し出される。
まだういういしい、どこか幼さの残る入団時の古田の映像が大写しになると、観客から
「わかーい」「かわいい!」などの声もあがって、ホームベース近くに立っていた古田本人は、ひたすら照れくさそうにずっこけている。
野村監督の教えを受け正捕手になり、首位打者、そして優勝、日本一、と古田のたどってきた道は、そのままヤクルトスワローズの栄光の歴史だ。


わたしがファンになった頃、ヤクルトは「お荷物球団」と呼ばれ順位はいつもBクラスで、ヤクルトファンというと奇異な目で見られていたぐらいである。
それが1990年に野村監督が就任し、同じ年に入団した古田の活躍でみるみる「強い球団」へと変貌していく。
古田が入ってきた頃、正捕手は入団6年目のだったが、わたしは「あ、これは古田が正捕手にとって代わるな」とすぐに思ったものだ。
91年に古田が落合博満(現・中日監督)と首位打者を最後まで争っていたとき、試合のTV放映がないので、ラジオ中継をつけて聴き、ハラハラしながらついに打率が落合を上回ったとき、ラジオの前でバンザイをしたことをよく覚えている。


ヤクルトが強かった90年代、ファンとしても数々の思い出をつくってもらった。
92年は神宮まで日本シリーズの対西武の開幕戦を見に行った(杉浦亨のサヨナラ満塁HRで勝利)。
93年は、なんとリーグ優勝に立ち会えた。しかも偶然にもその日は会社の慰安旅行で福岡から東京に来ていたのだ。
宿泊ホテルで会社の宴会があったが、そんなものは完全無視してさぼり(笑)、新宿の京王プラザホテルから夕方いちもくさんに、神宮球場に向かった。優勝が決まった瞬間、神宮全体が地鳴りのように観客の歓声でとどろき、目の前に古田がぴょんぴょんとはしゃぐように真っ先に飛び出してくるのが見えた。友人からは社員旅行先が東京で、ちょうどその日が優勝なんて出来すぎてる、日頃から熱心に応援していたごほうびかもね、と言われた。


95年は神戸グリーンスタジアムに対オリックスの日本シリーズを見に行った。開場を待っていたら、すぐ前にTVで見たことのある古田のご両親が一般客に混ざって並んでらした。
わたしは当時、股関節の手術を間近にひかえており、関節がずっと痛んでいたが、日本シリーズはどうしても見たくて、強めの痛み止めを飲みながら新幹線で神戸に向かった。
このシリーズは、イチローを徹底的におさえこみ、古田が「イチローくんが夢に何度も出てきた」というほど、配球に苦労したらしい。
シリーズ後、フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚したが、結婚が決まったときはファンの女の子同士で
「ずるいよね〜、わたしたち一般ファンは個人的に話なんてできないのに、取材といって親しくできるんだもん!」とフンガイしたこともあったっけ。


97年の古田は、シーズンでも日本シリーズでもMVPを獲得、最良の年だったのではないかと思う。
その翌年のお正月、友人のつてで会員ではないのに「古田敦也後援会」の新年会に潜入? したことがあった。
古田の故郷・兵庫県川西市でおこなわれたもので、後援会の会員、近畿のヤクルト販売の会社の部長さんなども呼ばれ、古田を交えてゲームや写真撮影会を楽しんだ。
奥さんの中井美穂もこのとき来ていて、彼女は古田の親戚の子と遊んでやっていて感じいいな、と思ったものだ。ご本人はTVで見るよりもずっとやせて見えた(最近は仮面夫婦などと言われてますが・・(^^;))
古田が地元の友達から「あっちゃん、あっちゃん」と呼ばれているのをほほえましく見ていたことを思い出す。


古田の活躍はここに書くまでもないが、「チャンスに強い」という印象がある。
いい場面でタイムリーを打ったことがより鮮明に残っているせいもあるだろう。
いっとき、「セ・リーグの盗塁数が落ちた。走者のレベルが落ちたのでは」と言われた事があったが、わたしはすぐに
「それは古田が盗塁を刺しているからだよ」と思ったものだった。全盛期の盗塁阻止率は644(93年)という驚異的な数字である。
打撃、リード面、肩の強さ、いずれをとっても彼が日本プロ野球界を代表する名捕手であることは間違いない(ナンバーワン捕手はいわずとしれた、師匠の野村克也・現楽天監督であることは言を俟たないだろう)。

古田の思い出を書き出せば、きりがない。
18年間、ヤクルトスワローズの顔だったのだから。
しかしそれも、もう見られなくなるのだ。


最後の「背番号27」

ご両親や奥さんの中井美穂からの花束贈呈、記念撮影が行われる。
何人かの女の子たちもいっしょだ。
古田夫妻には子どもがいないので、古田が以前ブログで、とてもかわいがっていると書いていた姪御さんだろうか。


胴上げは、捕手というポジションもあって、ホームベース付近で。
監督としては、今年、1986年以来の21年ぶりの最下位という屈辱的な結果になってしまった。その責任も取る、ということも語っていたが、岩村がメジャーリーグに行き、新戦力もままならず、思うような戦い方もできなかったのでは。
ファンのあいだでは監督になるなら、現役生活をまっとうしたあと、解説者やコーチをしたあと、満を持して監督就任をしてほしかった、という声も強い(ヤクルトファンとしても知られる文壇の巨匠・村上春樹氏も著書の中で同様のことを書いている)。
どちらかといえば球団の「兼任監督(プレイングマンージャー)」という話題作りのために、やや強引に監督にさせられてしまった感もある。
野村監督の例もあったが、あれは彼がまだ現役としても全盛の頃だ。
選手として衰えの出てきた古田には、采配をふるいつつ、みずからも打ってマスクをかぶって・・というのはかなり重責だったと思う。
今季は、先発マスクでをかぶることもなく「代打オレ」も激減していた。


古田が場内一周をしてファンに別れのあいさつをする。
飛び交う色とりどりのテープ。ライトスタンドの応援団は、現在のとは違う、10年ほど前まで使われていた古田応援ソングを演奏している。懐かしい。
「フルタ! フルタ!」の大声援がやまない。わたしも大声で呼びながら、ああ、これで最後かと思うと涙がにじんできた。
古田が現役だった18年間の思い出が、山のようにこみ上げてくる。
2000本安打は松山の坊ちゃんスタジアムだった。
プロ野球労組の委員長としての活躍、史上初のストライキ決行、プロ野球機構側との交渉中には、試合中、相手チームのファンからも「古田コール」を送られていた。


場内一周し、あいさつも終わったあと、クラブハウスへ帰るかと思われたが、古田はラミレスに伴われ、ふたたびライトスタンドへ向かう。
そこで古田は外野フェンスによじ登って、しばらくのあいだ、おおぜいのファンと最後の別れを惜しんだ。
大声援は鳴り止まない。
すぐに、2001年の優勝時を思い出す。あのときも外野フェンスまでのぼってきて、ファンと喜びをわかちあったものだ。
でも今度のそれは残念なことに別れの挨拶なのだ。


古田は観客への最後のあいさつを
「また、会いましょう」
としめくくった。
そうだ、いつかまたユニフォームを着た古田と出会いたい。ユニフォーム姿でない古田敦也は考えられない。
わたしはふたたび古田監督を
「また、会えたね!」
と言って迎えられる日が来ることを願っている。