「世界文学の楽しみ」 池澤夏樹氏講演会(2008年7月18日・学習院大学)

つい2週間前にも池澤夏樹氏の講演を拝聴したばかりだが、東京都内でまたも催され、先日とはテーマも異なるので、再び聴きに行って参りました。
7月15日は、池澤氏が選考委員を務める芥川賞の発表の日。そのために在住しているフランスから帰国していることもあって、この時期、講演の仕事が集中しているのかも。

講演は「学習院大学 英語英米文化学科発足記念特別講演」。
なぜ学習院大学なんだろ? と最初思ったのですが、肝心なことをわたしは忘れてました。
池澤氏のお父上である故・福永武彦氏はむろん、作家として著名ですが、一方で、学習院大学で長く教鞭を執られ、フランス文学の教授でした。そういったご縁もあって、講師として呼ばれたのでしょう。
また例によって、講演中にわたしがノートに取ったメモから書きおこした記録です。
聞き漏らしや、割愛した部分もありますが、すばらしい内容だったのでぜひ多くの方々に読んでいただきたく、ここに掲載した次第です。


学習院大学にやってきて、懐かしいような気持ちがしています。
僕の父の福永武彦は学習院大学の仏文の教師をやっていて、僕は20歳ぐらいのころ、研究室に遊びに行っておしゃべりしたり、書棚の本を物色したりしていました。
父は学習院大学の職員住宅に住んでいたので、たずねて行ったこともあります。
僕の「キップをなくして」という子ども向けに書いた小説の中に、その場所を登場させてもいます。


本日のテーマは「世界文学の楽しみ」
まず「世界文学」「国民文学」とは対立する概念。国民文学とはイギリス文学とかドイツ文学ですね。
これを最初に言い出したのはゲーテ
世界文学とは、国民を超えた普遍性があると気づくのです。それは言語を超えても、国境を越えても意味が失われない文学のことです。


国民文学は国民国家とつながっています。
国民国家は、言語を統一して国をまとめたもの。さいしょはフランスがその典型でしょう。フランス語をまとめ、教育を通して軍隊を強化し「フランス」をつくる。
フランス人とはいかなる人か、という姿勢から文学が出来る。
われわれの身近でいえば「国民文学」の作家は司馬遼太郎さんでしょう。
日本人とは何であるか、ということを司馬さんは書き続けました。
では宮沢賢治は国民作家か? 否、彼には「日本人」というくくりはありませんでした。逆に作品はたくさんの外国語に翻訳されて、ギリシア語訳もあります。
しかし外国人がもし、司馬遼太郎を読もうとするときには、まず日本人に対する関心から入らないといけません。


日本では昭和50年代ぐらいまでは、「世界文学全集」という形態がはやっていて、けっこう売れたものです。
家に文学全集があるのがカッコいい、という感覚。
でもそういう出版のスタイルはすたれました。
文学全集を読むには、知的向上心のようなちょっとした努力が必要です。読むことを習慣にしていないと、余り意味がありません。少し我慢して読む習慣を身に付け、それが教養に至る。


それと対照的に物語りに入りやすく、手に汗握り、面白くて読みやすい。そういった書物が多く読まれています。
面白ければいいじゃないか、という開き直りに、教養主義は退散した感があります。
そんなところに新たに「文学全集」をつくるのは、時代錯誤では? と僕は思いましたが、おおざっぱにリストをつくって出版する河出書房新社へもっていきました。
日本の読書人に自分なりの「世界文学全集」を提示して、ためしてみよう、と。


かつての文学全集といえば、さいしょはホメロス、さいごがヘミングウェイ、フォークナー、カミュ、というぐあいでした。
しかしこのラインナップは古い感じがする。
我々はいったいなぜ小説を読むのか。
国境、言語を超えて読む値打ちとは何なのか? 今の世界はなぜそうなっているのか?
文学が9・11以降の世界を説明してくれていると思います。
文学とは時事的なものではありませんが、日常の興味や好奇心は現在から過去へとをさかのぼって見ていくことが出来ます。
日本はなぜアメリカと仲がいいのか? アメリカと安保同盟を結んでいるから。
なぜ同盟国なのか? その前にアメリカと戦争して負けて、占領されたから。
なぜ戦争をしたのか? 戦前、日本は旧満州国をつくったりして、アジアの覇権を握っていて、アメリカと対立を起こしたからというふうに。
僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。
ひとつはポストコロニアリズム
元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。
もうひとつはフェミニズム
女性の視点、女性の側から社会を見て、批評性を持って書かれたのもここ数十年のことです。
24巻、35人の作家でうち11人が女性です。以前の文学全集に比べると、女性作家が格段に多いと思います。
アメリカでは大学の新入生に、「読むべき本のリスト」を配りますが、これを見てある女子学生が
「死んだ白人の男ばっかりじゃないの!」と批判したというエピソードがありました。


ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス
フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。
西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。
従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。


第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。
今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。
フェミニズムとポストコロニアリズムは、世界文学を動かしています。
イギリスのブッカー賞はこのところインドからイギリスに、スリランカからイギリスに渡った、旧植民地生まれの作家の受賞が多いです。
アメリカ在住ですが、同様にインドにルーツを持ち、ロンドン生まれのジュンパ・ラヒリも、別の土地に行ったことで生まれる人間関係を実に巧妙に描ける作家ですね。
これらは「イギリス文学」ということばが使えません。「英語の文学」です。


さて、今秋の火曜日、7月15日に楊逸(ヤン・イー)さんの芥川賞受賞が決まりました。
僕はまだ選評も書いていないので、ここで選考の内幕を言うのもなんですが・・(笑)
前回、芥川賞候補になった、楊さんの「ワンちゃん」、僕はこれはおもしろいから受賞させてはどうか、と主張しました。
たしかに文章はあらけずりで、決まりきった言い回しが多い。
外国人がそういった言い回しを覚えると、つい使ってみたくなるものなんですよ。「玉のような汗」とか。でも日本人は小説の中では、陳腐な感じがするのでいまさら使わない。
今回の受賞作「時が滲む朝」は、二人の学生が大学に合格するところから始まります。
そして民主化運動が起こり、天安門事件がきっかけで大学を追われて日本へ来る。
この作品、構成もまずい、バランスも悪い。日本語もまずいところがある。
しかし、ものすごく作品に力があります。
他の候補作はたしかに楊さんに比べれば設定もうまいしお話も上手です。でも読み終わったあと「それで?」という感じ。
楊さんには、どうしても書きたい物語がある。
彼女は日本へやってきて、言語を変えたことによって、書くべきものをみつけたのだ、と。
これは世界文学の潮流に乗っていて、女性のほうがものの考え方が自由ですね。
小説のうまさでは他の候補作が上ですが、楊逸さんの、書きたいものがあってそれを書こうとする意欲は、応援するに値する、と僕は他の選考委員を説得しました。


日本という国は特殊事情をかかえています。
閉じた国、国境の固い国、まとまりの強い国である。異物排除の意識が強い。難民の受け入れも消極的。そして言語と国家が一致している。それで「母語=母国語」と使ってしまう。
世界では「母語」と「母国語」が違う国が多いのですが。
たとえばスイスには「スイス語」はありません。イタリア語、フランス語、ドイツ語、ロマンシュ語を使用しています。
英語で書いているから著者は英米人とは限らないのです。
僕がギリシアにいたころ、ギリシア語の学校の学友のケニア人たちは英語で会話していました。母国では30も言語があるため、英語で意思疎通していたのです。


今回の「世界文学全集」に日本語の作品は入れないのか? という質問をよく受けました。
日本語作品を省いた理由は、日本の出版界では「日本文学全集」と「世界文学全集」を別々に作るという、習慣というかすみわけがあること。
明治維新後、市民の生活を描く近代文学も欧米から学びました、といったマニフェストにしかならない、ということ。
そして大江健三郎、中上健次、村上春樹といった作家は文学全集でなくても文庫本で買えます。
しかし、どうしてももし、日本から1点だけ「世界文学全集」に入れるとすれば、徹底的に弱者の視点から描いた、石牟礼道子さんの「苦海浄土」でしょう。
加害・被害を超えて、センチメンタルでなく人間の人間らしさや被害者の根源的な巻き返しを、熊本の方言をまじえて描いている。僕は編集のあと彼女を入れるべきだったなあと後悔しました。


近代日本では、方言をなるべく放逐しようとしる方針でした。第一に徴兵して、軍隊の命令がわかるようにするため、東京あたりのことばを「標準語」としたのです。
これを徹底的にやられたのが沖縄で、「方言札」というのがありました。とても懲罰的なやり方で、学校で方言をしゃべると首にかけさせられます。だれかほかの人が方言を口にするまで、その札は外せません。
それで、方言札を掛けた生徒は、誰かの足を蹴ったりするのです。沖縄では痛いは「あがぁ」。
それで「お前、方言をしゃべっただろう」と言って方言札をその人に掛けます。
本当に言いたいことは、方言のほうが伝わることがあります。
ただ、物語の中で、方言だけではすすみませんから、石牟礼さんは要所要所にうまく方言を取り入れているのです。


ここで、「世界文学の楽しみ」の本編のお話を終わり、会場からの質問を受け付けました。

★現在の文壇については?
昔より、風通しがいいと思います。僕が選考委員をしている芥川賞も、文春から出している作品が多い、と批判されることもありますが、選考委員は出版元は気にしないし、選考はフェアだし、付け届けもありません(・・注・先般ニュースになっている、大分県の教員採用汚職の話題をさりげなく出したので、会場は笑いに包まれた)。
フランスなんかでは文学賞の選考委員は名誉職で、報酬がないんです。
僕は日本の文壇では同業者との付き合いがないし、文壇とは距離を置いています。文壇の「ボス的」な人はいないと思いますよ。


★書評について(質問者は大西巨人、丸山健二の作品をなぜ書評で取り上げていないかをたずねる)
僕は書評は自分が好きで、面白かったものを人に紹介しよう、という姿勢です。
大西さん、丸山さんが嫌いというわけではありませんが、大西巨人を取り上げるならそれより大岡昇平だし、丸山健二さんは評論家が付いてますから。

★文学の翻訳について。新訳や誤訳の問題も指摘されていますが・・
翻訳に耐えうるものが世界文学である、と考えています。
翻訳には良い翻訳と悪い翻訳があります。文化的なものを共有するようになれば、時代とともに翻訳は変わるべきです。以前はアメリカ文学の場合、アメリカ文化をいちいち翻訳の中で説明していましたが、それが不要になります。
光文社の「赤と黒」の誤訳が問題になっていますが・・編集者と訳者がもっと時間をかけて訳文をきちんとつきあわせれば、こういうことは起こらなかったと思います。「赤と黒」なら、大岡昇平の翻訳もありますけど。


★「帰ってきた男」が映画化されると京都の友人から聞いたのですが、公開はいつごろですかこれは恥ずかしながらわたしが、思い切って手を挙げて質問しました
監督はフランスの、若くて野心のある男で、映画化に関しては、僕は「どうぞ、どうぞ」と言ってます。
ただ、資金がなかなか集まらないようなんですね。そのうち制作されるでしょう。


★フランスにお住まいになっていることで創作にあたって変わったことは?
フランスに住んでいるのはポジティブな動機ではなく、きれいな風景のところでラクに暮らしたいな、と。
特にフランスで日本の文学を書くことに違いはありません。
インターネットもあるし、日本の新聞も読める。
僕がかつてギリシアに住んでいた頃はもちろんインターネットも電子メールもなかったし、日本の新聞はずいぶん遅れて読んでました。ギリシアにいた3年半、日本へは帰国していません。
でも今はこうして呼びつけられて(笑)、しょっちゅう日本に帰ってきてますからね。


「では、このへんでお開き、ということで」と、午後6時から7時50分ごろまでの講演でした。
最後に学習院大学の女子学生なのでしょう、若い女性から花束を受け取り、少し照れ気味に花束を高く掲げて見せて退場されていきました。

「作家という仕事」 池澤夏樹さん講演(2008年7月5日・武蔵野大学)

河出書房新社 池澤夏樹・個人編集「世界文学全集」刊行記念対談(VS江國香織、青山南、2007年11月21日・紀伊国屋書店新宿南店サザンシアター)

池澤夏樹さん朗読会+梨木香歩さんとの対談(2007年7月5日・丸善丸の内店)

池澤夏樹朗読会+トーク+サイン会(2007年5月9日・紀伊国屋書店新宿南店サザンシアター)

2004年の池澤夏樹さんの講演会(京都)

2003年の池澤夏樹さんの講演会(福岡)