2003年1月 BOOKS

     「ベルリンの瞬間」 平出 隆(集英社)
人はいったいどのようにして、住んだことのない土地を自分にとってのもうひとつの土地と思い定めるようになるのだろうか。(30頁)

ドイツ・ベルリンの大学に日本文学の講師として招かれた平出氏。四季を通じて暮らしたベルリンの生活、そこを拠点にして旅をしたヨーロッパの各地。詩人らしい、美しい言葉で記録された、紀行文のようなヨーロッパ滞在日記のような不思議な味わいのある文章である。
不動産屋をまわり、役所の手続きを済ませ、日本から妻と猫が来るのを待つ。少しずつ街に慣れ、鉄道であちこちを巡り、言葉もだいぶ覚え、知己も増えていく。平出氏はふたりの幻影に招かれて、ベルリンを逍遥するのだ。ヴァルター・ベンヤミンと、フランツ・カフカ
読者はいつか平出氏の日常の中に溶け込むように、ベルリンの瞬間瞬間を感じていく。

ベルリンが他の都市とちがう印象を与えるその第一は、すべてにわたっての大きさだろう。初めてここを歩いたとき、大通りを二度立ち止ってようやく渡れたことに驚いた。空中ブランコができそうな天井の高さ、態度まで大きな家具調度、果てしない公園、無駄の域にも達している前庭中庭にも驚いた。
巨大な建物が並んでいたとしても、道の大きさが一定の感覚の範囲ならば、人は無意識にも建物の巨大さを測りながら歩くので疲れは少ない。けれど、建物も並木も、車道も歩道も巨大であれば、それらのあいだの調和によって、大きさそのものの計測が狂うことになる。普通に歩いているつもりが、なかなかあの街角に着かない、という感覚に陥る。
(62頁)

平出氏は北九州生まれ。故郷に住む両親の話も合間に出てくる。わたしもよく知るあの街のそこかしこを思い浮かべつつ、平出氏も歩いた場所なんだろうか、とふと親しみを覚える。
そしていつか自分もベルリンの街を旅している。彼の帰国が近づく記述には、わたしまで愛着を持った街を去らねばならない名残惜しさ、寂しさがこみあげる。
ところで、平出夫婦の愛猫が「n」として登場。「猫の客」の「チビ」とは別である。「n」という小文字イニシャルでの表現が、彼らの猫とのベタベタしない距離のとりかたが察せられる。やっぱり「n」は「ニャンコ」の「n」でしょう=^・^=
    「池澤夏樹・アジアの感情」 新井敏記(スイッチ・パブリッシング)
新井氏には、やはり池澤氏へロング・インタヴューをした対論集「沖に向かって泳ぐ」がある。今回もぎっしり濃密に、池澤氏の作品の成り立ち、創作秘話、文学論、そして旅と世界を語ってもらっている。こういうのって、新井氏ならではの仕事。こんなに長く語ってもらうには余程池澤作品を綿密に読み込んでいなくてはできないからだ。
わたし、「花を運ぶ妹」は1回読んだきりだったので、新井氏の問いかけの部分を読みつつ、そうか、こんな筋だったっけ、と思い出したりした次第である。
女性の目から見ても、池澤氏が描く女性は男性特有の偏見や、ステレオタイプの造形がなく好ましい。そんな彼が語る「女性観」のくだりは、ファンにとってはなかなか興味深く読めました。

僕の場合は女性にすり寄っているわけではなく、自分の中に女性原理があると思うんです。つまり「女であった場合の池澤夏樹」というのがいる。それは本来誰でもそうだと思います。ユング風に"アニムスとアニマ"と言ってもいいけれど、僕の中に女であったはずの自分というものが隠れている。それが僕の場合は出てきやすいのだと思う。・・女であることに少し憤然としながら、でも百パーセント女であるような女なら書けると思った。(106―107頁)
   「半落ち」 横山秀夫(講談社)
会社の同僚、S君に勧められて読む。恒例・週刊文春の「このミステリーがすごい!」ほか、各紙で評判になっていた警察小説。

現役の警察官が妻を殺害し自首。アルツハイマーに冒され、病気で早世した息子の命日さえ忘れてしまったことを悲観した妻に懇願され、彼、梶警部は最愛の妻を手にかける。事件は梶の自供どおりの捜査で終わるはずだった。だが、ひとつ不可解な点が。自首するまで二日間の空白がある。なぜすぐに自首しなかったのか。 後追い自殺を考えたのか?
果たして梶は二日の間に何をしていたのか? それを彼はどうしても語ろうとしない。すべて自供して落ちたわけでない「半落ち」の状態。

梶をめぐり、彼の後輩や、事件を追う新聞記者、裁判官、検察官、刑務所の看守、それぞれの章をたて、物語が展開する。事件そのものの核心の人物である梶警部を直接語った章がなく、周辺のひとびとを描くことで主人公の「空白の二日間」を埋めていく構成が巧みである。1月に発表された直木賞の候補作。受賞とはならなかったが、選考委員が落選理由について述べるくだりにはちょっと問題が・・だって、ミステリーの核心になることについて言及してるんだもん、委員が「ネタバレ」を言っちゃあ、ダメだよ。