日常的共同犯罪つみ重ねの危険性について


岩城正夫


 
〔2011年3月11日から継続している東京電力福島第一原子力発電所の大事故を考え ながら、だいぶ前に私は原発についてのエッセイを書いたことを思い出し、書棚からその 冊子『核・安保を考える』を取り出して見た。それは今から30年前に執筆されたもの で、当時はパソコンなどはなく、手書きの原稿をそのまま印刷したものなので、ここにデ ィジタルデータに打ち直して掲載することにした(2011.5/25) 。〕

                                                                                                               
U君の孤独な闘い

 U君は私の古い友人でM原子力という会社に勤めている。U君は今から20余年前、設 立されたばかりのその会社に技術者として入社した。当時はまだ原子力発電が計画段階に あったときで、U君はその会社で原子燃料棒について研究しているようだった。私たちは 時々会っては原子力発電の将来について話し合ったりしたものだった。
 1966年、日本でも原子力発電が実用に供され始めたが、その頃からU君の会社も多 忙になりだしたようだった。と同時に、いろいろな放射能事故もひんぱんに発生しだした ようだ。
 U君は会社内での放射能事故を重視し、それへの対策を上司に意見具申すると共に、放 射能をあびた労働者の人権を守るため、その問題を労働組合でとりあげるよう提案した。  ところが結果はかえって悪くなり、U君は会社の中で孤立することになってしまった。 会社幹部からは要注意人物とみなされたばかりでなく、組合幹部からもけむたがれるはめ となった。それが決して御用組合ではなかったのにである。
 やがてU君は技術者としての地位を奪われ、図書の整理という事務職に配置替えされて しまった。そのことで彼は放射性物質を直接扱うこともなくなったし、そこで働く現場労 働者との接触も絶たれてしまった。
 それでも彼は組合に人権の問題を訴えつづけ、そのしんぼう強い闘いは、ついに組合も それをとりあげざるをえなくなっていった。折も折、放射能汚染の問題で会社周辺の住民 がさわぎ出したので、それが新聞にも報道されるところとなり、組合もいよいよ動かざる をえなくなっていった。
 ところが、やっと動きだした組合も、社外に対しては口を閉ざし、地域住民に対しては むしろ会社側をかばいつづけたという。
 1979年におきたアメリカのスリーマイル島における放射能事故は、U君の会社内で も関心をよんだ。図書係のU君は直ちにTIMEをはじめ関連の文献を注文し、集まった 資料をもとに図書室内にスリーマイル・コーナーを設けて社員が効果的に利用できるよう にした。
 ところがU君のその行動に対して会社側は圧力を加え、U君を東京の本社に呼びつけた り、同君の図書注文の権限を大幅に制限するようなことまでした。U君はそのことを組合 に訴えた。ところが組合は形式上はたしかにそれをとりあげ、会社側との交渉の議題には したのだが、いつも他の問題のやりとりで時間切れとなり次回まわしにされてしまって、 事実上はとりあげないも同じであったという。
 なぜ組合までもが会社といっしょになって事故に目をつぶろうとするのであろうか?  そして特に外部に対してそれを隠そうとするのであろうか? だが、かつて有機水銀中毒 で有名になった公害事件でも、労働組合は会社と共に事実を隠そうとした例があるとい う。そのため、会社内で公害の原因をつきとめようとした人たちは、会社からも組合から も白い眼で見られ、ひどいばあいには村八分のような状態にされてしまった例すらあった という。

 同じことが国家的・国際的規模で行われる危険
                      

   U君を会社側といっしょになって孤立させた組合のやりかたはけしからんと思う。しか し、私たち自身、気付かぬうちに、それと同じような過ちを犯してはいないであろうか。 いま犯していないとしても、やがて犯す可能性はないであろうか。
 じつは、われわれの気付かぬうちに、われわれの毎日の日常生活において、われわれは すでに相当量の原子力を利用して生活しているという現状にまず眼を向けなければならな いと思う。
 日本での原子力発電による電力は現在やく一千五百万キロワットで、アメリカに次ぎ世 界第二位であるという。それはどれくらいの電力かというと、もし各家庭で使う電力が、 電灯のほかに冷蔵庫、掃除機、洗濯機、テレビ、ラジオ、ステレオ、などをごく普通に使 っているとすれば、約五千万世帯分に相当する。つまり日本中の一般家庭の電力をそっく りまかなえるほどの発電能力である(この計算は一世帯あたり月に200キロワット時の 電力量を使うとして)。
 ところで現在の日本の総発電能力は一億キロワットを越えている。つまり一般家庭で使 う量の7〜8倍にもあたる。そんなに多量の電力をいったい何に使っているのであろう か。
 まず目につくところから考えてみよう。国電、地下鉄、新幹線などの列車を動かす電 力、デパートや地下街の照明、官庁、病院、学校、大学、研究所などで使う電力、劇場、 野球場、ネオンサイン、バー、キャバレー、テレビ局、新聞社、このように見ていくと、 一般家庭以外にも電力を使っている場所が無数にあることがわかる。
 がそればかりではない。新聞や週刊誌等に使われる紙を作るのにも、印刷インクを作る のにも、印刷機を動かすのにも、出来た印刷物を裁断するのにも電力を使う。ジュースや 缶ビールを作るのにも、とくにアルミ缶のばあいはかなりの電力を使う。もちろんアルミ の鍋やアルミ製品は大量の電力を使う。また身のまわりをうめつくしているビニール、ポ リエチレンなどの合成樹脂を作るにも成形するにも電力を使う。魚や肉などの保存にも相 当量使われているし、加工でも使われている。
 さらに自動車を作るのにも造船にも、そもそもその材料である鉄を生産するのにも大量 の電力が使われている。
 そのような日本の経済活動の上に、われわれの毎日の生活は乗っているといえる。約7 分の1の原子力発電による電力は、いろいろな形になってわれわれの生活のすみずみにま で入り込んでしまっている。それは同時に、原子力発電のために産出される放射性廃棄物 をわれわれ自身がかかえこむことでもある。その廃棄物をドラム缶につめて、それを南太 平洋に棄てようとしてその周辺に住む人々の反発を買ったのはつい最近のことだ。
 われわれは気付かぬうちに、公害をまきちらす大企業の会社員と同じ立場におかれてし まっているのではなかろうか。われわれは気付かぬうちに、日常的な国際的共同犯罪に手 を貸しつつあるのかもしれない。

ストップできないのか 
 

 純理論的にいえば、原子エネルギーの安全な利用は可能だと思われる。それはガスのよ うな有毒で危険な物質でも燃料として自由に使用できるのと本質的には同じことなのだと 思われる。だが、そうなるまでには長い年月にわたる技術的体験のつみ重ねが必要だっ た。その結果、ガスを安全に利用できる技術を人類は獲得した。
 しかし、それほど安全で自由にコントロールしているはずのガスでも、経済効率を優先 させ、少しでも人命を軽視するようなことをすると、たちまち恐ろしい事故につながる。
 まして放射能をともなう原子エネルギーの利用は、化学反応のみのガスに比べて格段の むずかしさがあるから、よほど慎重に行なわれねばならない。技術の歴史という視点に立 てば、原子力利用技術は現段階ではほんの試験的段階にすぎないと思われる。まだそのコ ントロール技術は、特にその安全面ではとうていガスの場合の足もとにも及ばないと思わ れる。まだあと20〜30年くらいは試験的な段階とみなければならないだろう。
 にもかかわらず、ある種の経済効率から、原子力は実用に供されてしまった。技術が真 に実用段階に達したとき始めて許されるような大規模なところまで拡大させてしまった。 その拡大された原子力発電の上に、われわれ自身の日常生活は乗っているのである。
 人間は、自分の生活水準をいったん高めてしまうと、そのぜいたくさに慣れてしまう。 その生活水準を一割でも下げることはかなりむずかしい。いま日本の原子力発電は日本の 総発電量の十数パーセントに達してしまっている。電力は、水力も火力も原子力もみな区 別なしに混じり合って、国民生活のすみずみにまで入り込んでしまっている。いま原子力 発電をストップさせるということは、日本の電力を十数パーセントだけダウンさせること になるから、その分だけ経済活動をダウンさせることでもある。ということは、単純化さ せていえば、われわれの生活水準を十数パーセント下げることとほぼ同じと考えねばなら ないということである。そのパーセントの値は国民全体の平均値だから、もし実際にそう なったとすると、あちこちにシワヨセ部分が生じる恐れがあるから、相当に深刻な犠牲が 出るかもしれないだろう。だから急にストップさせることもむずかしいと思われる。
 省エネルギーというコトバがあるが、ほんとうは電力やガソリンの使用量を減らすだけ でなく、紙や鉛筆、ボールペンの無駄使いをやめることも、あらゆる資源の再利用を考え ることもみなそれに通ずることになるし、あらゆる消費を減らし、生活水準を下げること がそれに通ずるということになる。それは言うは易いが行なうのはむずかしい。しかし少 しずつでも行なっていくしかないだろう。
 一方、太陽熱、風力、地熱、海水(潮の干満利用)など、燃料を使わない発電方式を研 究・開発しつつ、徐々に原子力発電を減らしてゆき、さいごは試験研究炉だけにしてしま うところまで一度はもどってみなければならないかもしれない。
 ところが現実の政治や行政の方向は、決してそのようには向かっていない。むしろ原子 力発電をどんどん増加させようとしているようである。なぜなのだろうか。ある有力な説 によると、もともとは原爆用の濃縮ウランが過剰生産となり、しかもウラン濃縮工場はい ざという場合にそなえて稼働させつづけねばならず、濃縮ウランの過剰はますます度を加 えてしまって、それを処理するために、安全上かなり問題のあることを知りつつ原子力発 電を強引に推進したのだという。
 濃縮ウランは燃料として軍艦にも用いられる。潜水艦、空母をはじめ、戦艦にも巡洋艦 にも使われているらしい。そのばあい放射能は海中にたれ流しだともいわれている。戦争 用の道具とはそんなものかもしれない。濃縮ウランはそれでもなお過剰らしいという。
 そういうことで原子力発電所がつぎつぎと作られていくのだとしたら、それは単なるエ ネルギー問題とはいえなくなるだろう。ところが、この15年間に日本だけに限っても3 5基(建設中を含む)も作られてしまったのである。
 いったん電力が供給されはじめると、それをあてにして工場や都市ができ、またそれを あてにして人々の生活がはじまる。そのようにして、いつのまにか、われわれは原子力発 電の糸にからめられてしまっているのが現状である。
 しかし、その出発点は、真に人類の幸福のための原子力発電技術の研究をおろそかに し、場当たり的な技術、軍事的・経済的効率優先の技術によって始められたといわれる。 もしそれがほんとうだとすると、それは根のところで核戦争の準備と結びついていること を意味していて、まことに薄気味悪いことと言わねばならない。いますぐどうにもなるも のではなさそうだが、みんなでじっくり考えていく必要があるのではないだろうか。 (1981.10.20.記)
         
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〔このエッセイは、和光大学(核・安保を考える会)教員有志による編集『核・安保を考 える』創刊号(表紙題字:宮川寅雄、編集代表:杉山康彦)、1982年1月10日発行 に掲載されたものである。〕