人間と機械(その2)



                              岩城正夫


   1、機械技術がきらいな人

 もう20年以上も前のことになると思いますが、人間の乗った宇宙船が初めて月面に着 陸する場面がテレビ中継されたことがあります。私はテレビの前に座ってその瞬間を待っ ていたのですが、なぜか家内はあまりいい顔はしませんでした。中継が終わってからしば らくして、家内はポツリと言ったのです。何も人間がわざわざ月まで行くことなんてない のにと。彼女はそもそも人間を乗せたロケットを月に打ち上げるということそれ自体が神 経にさわることだったようです。ようするに、そういうことが嫌いなのです。
 私は機械が大好きというほどでもありませんが、けっして嫌いでもありません。そのせ いか自分以外の人間もそうなんじゃないかと勝手に思い込んでいたきらいがありました。 しかし、20年前のこの月ロケット騒ぎがきっかけで、世の中には機械技術が嫌い、時に は嫌悪感に近いものを持つ人間もいるんだということを私はやっと知りえたように思いま した。
 そういえば、わたしの家では長いあいだカラーテレビがありませんでした。家内が買い たがらなかったからです。ある時、病に倒れた母が急に同居することになったので母に見 せるためにようやく購入したのでした。電子レンジの導入にも家内は反対であったため、 ごく最近まで家にはありませんでした。しかし、私の方が自分の研究に必要となり、実験 用木片の乾燥化に利用するため購入しました。それからしばらくして家内はそれを時々利 用するようになりました。また、私の家の電話機はいまだに黒色の手回しダイヤル式の古 型で最初から一度も交換していません。もう25年以上は使っているはずです。留守番電話 もなければキャッチホンもなし、もちろんファックスもありません。クルマにいたっては 夫婦ともども自家用車を持とうと思ったことは一度もなく、二人とも運転できませんが、 私はクルマが嫌いなためではなく、人身事故の加害者になるのが怖いからというのが最大 の理由でやりません。しかし家内のはそれとは違うようで、そもそも運転技術のようなこ とは自分とはまったく縁がないというか、頭がそういうことを受けつけない、考えてみた くもない事柄のようです。

   2、不自然だからきらいだという人

 機械を嫌う例をもう一つ出してみたいと思います。数年前、大学の卒論でルームクーラ ーと人間とのかかわりを取り上げた学生がいました。彼の名をF君といいます。私には、 彼がルームクーラーを嫌うという程度のものではなく、クーラーに敵意を抱いているよう にすら思われました。
 F君は高校生の頃まではクーラーというものをあまり意識したことはなかったようだと いっていました。もっともその頃はクーラーの台数が少なく今とは比べものにならないほ ど普及率が低かったとおもいます。彼がクーラーをひどく嫌うようになったのは高校を卒 業したあと浪人をしていて予備校に通ったさい、その予備校のクーラーがやけに効きすぎ てじつに不愉快になったことが原因だと思うと語っていました。それ以来、彼はクーラー をひどく嫌うようになり、その気持ちは年月とともに次第に強いものになっていったよう です。そしてついに、私などからみると彼はクーラーに敵意を抱いているのではないかと 感じられるほどの強いこだわりを持つようになっていったのです。
 F君が、自分の長いあいだのそのこだわりを卒論のテーマにしたいと私に相談してきた とき、問題意識について質問してみました。
 「君がクーラーを嫌うのはわかった。しかし卒論でどうあつかうかがむずかしい。卒論 というのは一種の論文だから、自分の感情を表現しても卒論にはならない。何かを論じな ければならない。君の場合、卒論で何を論じたいのかな?」
 彼はいいました。
 「自分の卒論テーマのねらいはクーラーという機械が人間にとって如何に不自然で不健 康なものであるかということを証明したいのです。」と。
 彼は私のゼミ(技術と人間)に入って、そのテーマに取り組み、勉強し、調査し、とき どきゼミで報告しました。彼はクーラーの歴史も調べました。クーラーはアメリカで開発 され発達したのだといいます。その報告はクーラーの技術史であり、なかなか興味深いも のでした。
 そして彼はいよいよ卒論の中心テーマであるところのクーラーが人間にとって如何に不 自然で不健康かを証明する作業に入ろうとしていました。私はゼミ以外でもF君と顔を合 わせるごとに彼と議論しました。彼の証明しようとしていることはとても難しい問題であ って、もしかしたら結論はでないかもしれないし、証明が出来ないかもしれないという私 の感想も彼に伝えました。でも彼は少しもたじろがなかったし、しつこくそのテーマにこ だわり続けたのでした。

  
 3、クーラーと暖房の比較

 F君がゼミで報告をしたある日、わたしは彼に聞いてみました。
 「君はクーラーによる冷房を不自然というが、それなら暖房は不自然ではないのか? ストーブは人間が作ったものであって自然には存在しないし、人間以外の他の動物は火を 暖房になどしていない。つまり火による暖房はたいへんに人為的なもの・人工的なもので あり不自然そのものではないのか?」と。
 彼は次のように答えました。
 「たしかに理屈ではストーブは人工的であり自然なものではないと思うが、なぜか自分 にはストーブが不自然とは感じられない。」というのです。
 私もストーブが不自然には感じられないという点では同感です。例えば北国の冬ではス トーブなしではいられません。北国でなくても日本では冬になるとストーブか何かの暖房 設備を使うし、それがなければがまんできないし、とうてい快い状態にはなりえません。 F君が感じたように、暖房はあってあたりまえ、あたりまえなんだから不自然とは感じな いわけだと思います。冷房設備・暖房設備ともに人工的・人為的である点では共通なのに 一方は不自然であると感じ、他方は不自然とは感じない、それは何故なんだ? 私がF君 に聞きたかったのはそのことだったわけです。
 これからのべることが正解だと決めてしまうのは早計ですが、考えてみると人類は少な くとも数十万年前の北京原人の時代以前から火を使い出したことがわかっています。暖房 の歴史は何とそれだけの長さをもっています。暖房は人類にとっては不自然とは感じられ ないほど、抵抗感がまったく無いほど自然な存在になってしまっているようです。
 それに比べて冷房の歴史の短さはどうでしょうか。ルームクーラーの歴史などは百年も たっていないのです。人類が暖房設備を体験した時間との比は何千分の一以下なのです。 これは仮定の話ですが、もし今後何千年、何万年とルームクーラーを使い続けたら、それ は人類にとって不自然なものとは感じられなくなる時がくるかもしれません。あってあた りまえという状態になってしまうかもしれないと思います。
 その卒論は年末に提出されましたが、その中に次のような体験が紹介されていたのに私 は興味を引かれました。それは新宿にあるNSビルの空調設備のことです。彼は卒論のた めの取材で真夏の暑い盛りにあちこちのビルの冷房設備も調べ回ったそうですが、ふつう はビルに入ると先ず冷やりとくるそうです。映画館でも銀行でもデパートでも丸ビルのよ うな大きなビルでもみなそうだったようです。ところがNSビルだけはちがったというの です。ビルに入った瞬間おや冷房設備が働いていないのか、或いは冷房設備そのものが無 いのかと思ったほどだそうです。しかし、しばらくすると暑いという感覚が知らぬまにな くなってしまっていることに気づいたそうです。ふたたび外に出てみるとあきらかに外は 猛暑だということも確かめられました。つまり、そのビルでは人間が気づかないほど自然 に、あるいは「自然だ」といわざるをえないくらいに弱くなめらかな冷房をしているのだ ということが後で資料をみて確認できたそうです。
 彼は、冷房設備にもいろいろあり、中にはかなり工夫されたものもあるんだということ を発見したのです。しかし彼はその程度のことだけでは当初の問題意識が解決されなかっ たようです。卒論そのものは一応完成しましたが、卒論での、かの証明作業はかなり難航 したようで苦労の跡がありありとみられ、問題意識はそっくり継続したままでした。そこ で彼は卒業後、大学の専攻科に進学して継続研究することになりました。彼にとってはル ームクーラーという機械はどうしても好きになれないもののようでした。

  
 4、機械がすき?・きらい?

 どんな機械でも、一方ではそれを便利がって喜ぶ人がいるかと思えば、他方では、そう でない人もいるというのが実際だとおもいます。とはいえ、新しく登場した機械ほど、そ れを好く人と嫌う人の存在が対照的にみられるのではないかと思います。最近の例でいえ ばワープロがそうです。われわれの世代(昭和ヒトケタ)が一つの典型で、使う連中はど んどん使いこなしているようですが、それとは対照的に頑固に拒否している仲間もたくさ んいます。どちらの側も自分で納得しながらそうしているわけだし、どちらの側もそれな りに満足しているのですから、どちらがいいとか悪いとかは言えません。
 ところで、本来的に機械が嫌いという人も、もしかしたらいるのかも知れないけれども 実際にはほとんどいないと言っていいのではないでしょうか。機械一般が嫌いとか機械全 てが嫌いで一切使用しないという人は皆無に近いのではないかと思います。というのは、 われわれの周囲にはさまざまな機械が満ちあふれているので、機械をぜんぜん使用しない で生活するということは不可能に近く、現実問題としてありそうもないといえるからです 。例えば、かりに口では機械が嫌いだといったとしても、無意識で時計を利用していたり 電話を使っていたり電車に乗ったりバスやタクシーに乗ったりしていることが多いのです 。どれもみな機械です。その他、自分の知らないところで機械のお世話になっていること も多いと思います。新聞を読む。マンガをみる。新聞や本の材料である紙は機械で加工さ れるし新聞や本の印刷も機械でやるし、それを運搬するのにも機械が使われる。ラジオを 聞く。テレビをみる。カメラで写真を写す。スーパーで買い物しレジでつりをもらう。ど れにも機械が使われています。水道の水を使っても、電灯の明かりを利用しても各家庭に 運ばれてくるまでには機械類が間接的に利用されています。じゃぁローソクとマッチで明 かりを灯し、雨水を利用して生活し、たきぎを焚いて燃料とする生活はどうでしょうか?
 今ではローソクもマッチも機械で作るし、水を入れる器の多くは、また鍋・釜の類もほ とんどは機械で作られ、機械で運ばれたものです。
 つまり私の言いたいのは、機械が嫌いだという人でも、機械一般とか全ての機械に抵抗 感を持っているということは案外少なくて、嫌ったり抵抗感をもったりしているのは或る 特定の具体的な幾つかの機械なのではないかということなのです。この小文の初めに例示 した二人の機械嫌いのばあいでも、電車やバスに乗ることや電話をかけることや時計で時 刻を確かめることに対してはほとんど無意識・無抵抗感で行なっているようですし、機械 の全てに対して嫌悪したりしているようには思われないのです。
 そもそも、機械が嫌いになるプロセスなるものを推測してみると、或る具体的な機械と の出会いにおいて何らかの悪い印象を受けた体験がもとになって形成されると考えられる のです。初めて出会ったその機械で怪我をしたとか、たちまち機械が動かなくなってしま ったとか、あるいはその機械のために恥をかくはめになったとか、その他その他のさまざ まな原因がありえます。そういう嫌な体験の積み重ねが何度か繰り返されれば、機械一般 に対する悪い印象が形成され、機械嫌いが生まれると思われます。しかし現実には全ての 機械に対して悪い印象ばかりが積み重なることは困難で、きっと例外ができるでしょうか ら、だいたいが中途半端な機械嫌いの状態になっていると思われます。しかし機械嫌いの 原因となったその機械に対しては非常に悪い印象を持ちつづけるということは十分にあり 得るでしょう。その強烈な悪印象は他の新しい機械や未知の機械に対する態度に予断的な 影響を与えるかもしれません。しかしそれは全ての機械に対するところまでは徹底しきれ ないのではないでしょうか。
 そのように考えれば、或る具体的な機械に対して、他の幾人もの人が如何に喜びをもっ て迎えることがあったにしても、その人だけは絶対的に嫌うということは十分にありうる ことです。嫌いになった理由はその人だけにしか分からないかもしれないし、他の人には 絶対に言いたくないかもしれません。その人が、その機械をあくまで嫌い、それを一切利 用しなかったとしても、何ら差し支えなく生活できるのだとすれば、その人はその機械を それ以後も永久に好きになる必要もなければ考慮に入れる必要もないわけです。ワープロ が嫌いな人がワープロを一切使用しないでも少しも困らずに生活できるし今後一生ワープ ロをやりたくなければ学ぶ必要がないのと同じです。

   5、道具・機械の発達をどうとらえるか

 ところで、道具・機械と人類とのかかわりを、もう少しほりさげて考えるために、ごく ごくかんたんながら歴史的な概観をしてみたいと思います。
 先ず、人類の遠い先祖・・かれらはまだ人類というよりは動物だったのですが・・は道 具も機械も一切使わず、すべて素手ですませて生活していたと考えられています。それが 何時のころからか道具を使い始め、やがて道具の種類が増えていったと思われます。そう しているうちに道具の中の或る種の道具のいくつかを組み合わせて使うやり方も生まれた と思います。道具の組み合わせがしだいに複雑になっていったもの、それが機械なのだと わたしは考えています。
 わたしが面白いとかねがね思っているのは、人類の道具・機械の利用法についてです。 ふつう技術史などでよく言われることは、昔は単純な道具を使っていたのが、しだいに改 良が加えられていった。やがてそれよりも効率のよい機械が発明され、それが使われるよ うになったといった発達段階論的な技術史です。しかし、技術の歴史を注意深くみてみる と、道具が改良されたからといって全ての人が一斉に改良された道具だけを使い出すわけ ではなく、古いままの道具を使いつづけている人も同時に残っているというのが普通なの です。つまり道具の改良があるということは、多くのばあい古い道具を使う人と新しい道 具を使う人とが同時に共存するということであり、いわば道具の使用形態が多様化すると いう形をとることの方がふつうのようだということです。より効率の良い機械が登場した ばあいもそうで、いっせいにみながその機械を使うようになるのではなく、あいかわらず 古い道具を使う人、改良された道具を使う人、そして新しい機械を使う人というぐあいに 行動様式が多様化し、共存するというのがむしろ一般的だということなのです。
 そうしたことは人間の行動すべての面でみられると思います。食べること、着ること、 住むこと、それに様々な生産活動、交通に通信、そして子育て、教育、遊び、戦いなど、 どんな分野をとりあげてみても、そのどこでも通用しそうなことだと思われます。
 いまスポーツを例にとって説明しましょう。スポーツをやるばあい、人間の遠い遠い先 祖と同様に一切の道具を使用せず素手のまま行なうスポーツもたくさんあります。走るこ と、泳ぐこと、飛びはねたり飛び越したりすること等、個人単位で行なうものもあるし、 相撲・レスリング・空手などのように相手と勝負する形で行なうものなどいろいろありま す。次にごく簡単な道具を使うスポーツもたくさんあります。ボールだけを使って競技す るものの種類は多いでしょう。また棒を使う競技もあり、槍を使うスポーツもあり、少し 手のこんだ道具を使用するスポーツもあります。弓矢、フェンシング、剣道、さらに手の 込んだ道具を使うのもあります。スキー、スケート、ホッケーなど。そして、機械を使う スポーツもあります。機械といっても簡単なものから複雑な機械まであります。自転車競 技、ヨットレース、自動車レース、モーターボートレースなどいろいろあります。
 それらのスポーツのうち、どれが高級であるとかないとかは問題になりません。道具を 使わないからやさしいとか、簡単な道具を使うから単純だとか複雑な機械を使うからむず かしいとか、機械を使うスポーツだからもっと難しいなどということは全く言えません。 どれもみな熟練の極致をきわめるにはたいへんな習練が必要でして、スポーツとしてはど れも対等で上下などはありません。注目してほしいと思うのは面白そうな道具や機械が発 明されたからといって素手だけのスポーツがなくなるわけもないし、古い道具を使うスポ ーツが無くなるわけでもありません。むしろ面白そうな機械スポーツができたりする一方 で、かえって古い道具を使うスポーツが流行ったりすることがあります。道具を使うか使 わないか、また機械を使うかどうかなどは、いわば好みの違いというべきでしょう。はっ きり言えることは、昔にくらべると様々な道具を使うものや機械を利用するものなどスポ ーツの種類がひじょうに増加してきたということです。
 それと似たようなことは生産活動でも言えると思います。同じ類の製品を生産する場合 でも作り方が多様化してきたということです。茶碗を作るのに粘土を捏ねる機械が発明さ れ、成形する機械が発明され、粘土を焼くための効率的なガス窯や電気窯が発明され大量 生産が可能になりましたが、全体がその方向に進んだわけではありません。じっさい、か えって手作りで一つ一つていねいに作り上げる方に人気が出た面もあります。機械を使っ て作った陶磁器が高級だとはだれも思わないでしょう。実際はそれら両方の製作方法が共 存しています。
 衣類を作る方法にも似たようなことがあるし、料理を作る方法でも同様です。電子レン ジを使った方が高級な料理だなどと考える人はまずいないでしょう。
 ようするに道具や機械の発達というのは、私からみると目的に向かってせまってゆく方 法が多様化するということであって、素手でやりたい人は素手で、自分の好きな道具でや りたい人はそれを使って、機械を使いたい人は機械でやればよいのであって、どれがより 良いとか悪いとか序列をつけうるようなものではなく、どれを選ぶかは個人の好みの問題 だと思うのです。道具や機械が発達するということは実践方法が多様化し選ぶ選択肢が増 えるということだと思うのです。

   6、個人の好みを制圧する社会

 しかし、現実の社会生活をみてみると、道具や機械の利用法に問題がないとはいえませ ん。つまり、さまざまな道具類や機械類を自分の好みに応じて自由自在に選択する自由が 住民一人一人にあるかというと、かならずしもそうはいえないのです。
 ワープロのように小さくて値段もさほどでなく個人で購入することのできる程度のもの であれば、使うか使わないかを自分自身で決められます。選択の自由があるといえましょ う。ところが、機械が大型化するとむずかしくなってきます。例えば、移動手段としての 乗り物となると、さまざまな問題が出てきます。
 まず小さいものからいうと、個人用の電動車椅子があります。その機械は自分の好みに 応じて購入できるのでその点では自由ですが、問題は道路です。道路がそれなりに整備さ れていなければ、せっかくの電動車椅子も十分に使いこなせないでしょう。だから完全に 一個人のこととしては処理しきれない範囲の問題を含むことになります。
 その点では自家用車のばあいも同様で、購入だけなら個人の自由裁量の範囲内に入りま しょうが、やはり整備された道路が必要で、そのためには相当な経費がかかり公共事業で やってもらうほかありません。また、道路での事故をさけるためには様々な交通規則をも うけて規制しなければならず、それも公共の力に頼ることになりましょう。それらのこと は自動車を所有する個人にも規制の枠がはめられるということであって、どうしても個人 の自由の範囲を越えます。
 ところが、もっともっと大きな機械・・例えば電車や列車となると、それを利用してそ の便利さの恩恵を受ける人々だけの問題ではすまなくなります。たとえば、新幹線訴訟な どはその例だと思います。また大空を飛ぶ大型機械としての飛行機にも問題があります。 その大型機械を利用する人にとっては素晴らしいスピードが最大の恩恵なのですが、その 騒音はものすごく、特に大変なのが空港周辺です。空港は、それを建設する段階からみる と土地の買収にかかわるトラブルから始まって、その周辺の騒音公害と墜落の危険性など さまざまな問題が生じてきます。その周辺では個人が生きるための人権さえしばしば無視 されがちになるという話はよく耳にするところです。
 もし、ほんとうに個人々々の人権が尊重されている社会なら、自分の大嫌いな道具や機 械など使わないでも安心して生活できなければならないし、まして他人の利用する機械の 騒音や廃棄ガスやその他の危険にさらされるなどはとんでもない話だと思われます。しか し実際はなかなかそうならなくて、多数の人が便利だとして喜んでいるんだからといった 言わば多数決的原理の乱用で個人に我慢を押しつけ、国家権力で強制するような社会状況 がみられるというのが現状のようです。
 このような機械利用と社会のあり方との関係は、身体障害をへらす目的で機械が利用さ れるばあいにもあてはまるのではないでしょうか。すなわち、他人から機械の利用を強制 されたのでは困るのです。自分の身体機能をどう改善するか、そのために機械を利用する かどうかは本人の好みや判断にまかされるのでなければいけないと思います。いままでみ てきたように、道具や機械の利用の在り方は何時のばあいでも基本的にはそれを利用する 本人の意志が最優先されるべきで、他人からの強制はもちろん、親切のおしうりも、本人 には迷惑なだけではないでしょうか。

   7、あとがき

『ゆきわたり』11月号で戸恒和夫さんが9月号掲載「人間と機械(その1)」につい ての感想文をよせて下さいました。それを拝読し、私はまったく共感しました。私は前回 (9月号)の「あとがき」で述べましたように、(その1)では機械に対する肯定的な面 のみをとりあげましたので、今回(その2)では予告どおり機械に対する拒絶反応の面か ら話をすすめました。話は身体障害との関係で論じるまで深めることはできませんでした が、基本的な考え方は出せたと思います。感想などお聞かせくだされば幸いです。
                         
(1991年1月14日)