人間と機械(その1)



                                            岩城正夫
 


1、はじめに
 
 私は篠原さんと同じ職場=和光大学に勤務しているものです。3月頃だったように思い ますが、篠原さんから『ゆきわたり』に寄稿してほしいと言われ承知しました。私は4月 から学外研究員として海外に出かけることになっていて、そこで感じたことを書けという ことのようでした。
 ところが、旅先で篠原さんに原稿を書いて送ろうかと何度も思いながら書けませんでし た。何のことはない、何を書いたらよいのかをよく聞かなかったからです。いくら何でも 『ゆきわたり』に書くんですから、それなりの内容でなければならないはずです。けっき ょく、今回のばあい旅行しながらテーマを考えることはかなり困難であることがわかりま した。というのはヨーロッパでの移動しながらの旅は年中通貨の交換に追われ、しかも安 ホテルを探しながらの旅となり、おまけに春から夏までの衣類を詰め込んだトランクもあ って、夕方になるとくたびれて酒を飲んで後は寝るだけという毎日になってしまい、原稿 のテーマを考えるどころではなかったんです。
 そこで篠原さんに手紙を出して、書く材料には困らないけれども今一つテーマについて じっくり考えてみることが必要であること、旅先で考えるよりは日本にもどってからにし たいことなどを伝えました。私はつねに移動しているので篠原さんからの便りを受け取る ことはできません。だからそれは私からの一方的な通告のようなものになりました。
 ようやく私も帰国したのですが、それを待っていたかのように東京都養護学校の教師グ ループの一つ(肢体不自由児の肢体不自由を補うための自助具としてワープロ・パソコ ンを活用することを考える研究会の人々)から話をしてくれという依頼の速達が自宅に 届いておりました。日付をみると7月28日に話をしてほしいとあり、あと幾日も余裕が ありません。しかし引き受けることにしました。テーマは、人間にとって道具の存在はど んな意味をもつかを考えるという内容でした。その後、篠原さんには8月7日にお会いし ました。話し合いの結果、先に私が東京都養護学校の教師グループの会で話したテーマと も共通する内容となり、人間にとって道具というものがどんな意味を持つのか、それをな るべく障害者問題との関わりを考慮しながら考えてみようということになりました。よう やくテーマが決まったわけです。しかし、それはヨーロッパでの調査旅行で感じたことと は何の関係もなくなりました。でも、それはそれでよいのではないかと思います。

    2、機械に対する拒絶反応と受け入れの実例
 
 東京都養護学校の教師グループの人も言ってましたが、教育の場にワープロとかパソコ ンを導入しようとすると理屈以前の拒絶反応にあうことが少なくないそうです。さもあり なん、という感じはします。今ワープロを打ちながらの私自身ですら、はたして教育の場 とくに教室にワープロやパソコンを導入してよいものかどうか否定もしきれないけれども スッキリと賛成もできかねるような気分です。なぜそういう気分が生じるのか、それは一 度じっくり検討しておいても悪くないと思います。しかし、そうは言っても、どのように 検討すればよいのか検討方法がむずかしいように思います。大勢のひとからアンケートを とることも可能でしょうけれど、どうもそういうことをやってみても根本的な解決にはな りそうもない。私としてはもっと本質的な議論をしたいという気がします。ではどうする か、歴史的な検討や哲学的検討が必要のような気がしますが、先ずは身近な機械導入の事 例から検討してみたいと思います。
 身近な事例の一つは、私自身がワープロを教育の場でどのように利用しているかという 体験です。恐縮ながらそのことを少しばかり紹介させていただきたいと思います。
 私がワープロを購入したのは、それが私にとって文章作成上たいへん優れていると思っ たからです。はじめは原稿づくりにだけ利用していましたが、あるときふと視力障害者以 外の多くの一般学生に点字を学ばせるのに利用できないかと思ったのです。
 一般に、点字は慣れるまで時間がかかると思われているし、多くの学生は慣れるように なるまで点字と取り組むための辛抱がきかないようです。視力障害者以外の学生は、そば で点字を打っているのを見ると初めは多少の興味を持ちますが、それが読めるようになる までにはいたらないのがほとんどです。ほんのわずかの学生だけが点訳サークルというと ころに所属して点字が使えるように学んでいるだけというのが現状のようなのです。
 私は次のように考えたのです。多くの学生は或る誤った先入観を持っていて、点字とい うものがたいへん面倒なもので学ぶことが難しいと考えているらしいこと。その最大理由 の一つは点字の文章に接することがほとんどないこと。点字の文章を実際に読んでみれば ローマ字を学ぶのとあまり変わらないということがわかること。自分にも読めると感じら れるためにはわずか1〜2時間もあればよいこと。そのことを体験的に悟らせるのには点 字の文章を簡単に大量に作成して学生に読ませてみる必要があること。それにはワープロ が適していること。ということです。
 実際の点字は御承知のように厚紙に点筆で凹凸を作ったものです。しかし視力に障害の 無い学生は点字を指先で触れて読めるように訓練する必要はなく、目で点字の凹凸を直接 読めば簡単なわけです。そのことを私が知ったのは点字図書館発行の『点字のしおり』に そう書いてあったからです。またそのパンフレットには沢山の印刷された点字の文章が掲 載されています。印刷された点字とは、点字を白丸や黒丸で表現したものです。百科事典 などを調べてみると、どの辞典にも同じ様な白丸や黒丸で表現された点字五十音表や点字 の文章が掲載されていて、辞典によって白丸が凹であったり凸であったりしますが、とも かく白丸と黒丸とを6つずつ使って点字を表すという点では共通していました。『点字の しおり』では凹に黒丸が使用されています。それは点字を凹んだ側から見るのがよいので はないかという立場にたってのことのようです。
 私は点字図書館発行の『点字のしおり』の立場をとることとし、点字の凹の側から見た 文章が簡単につくれる方法を考えました。それは、ワープロで普通に文字を打って変換キ ーを押すと、それが点字に変換されるという仕組みです。漢字代わりに点字を持って来た だけです。それを使って沢山の文章を印刷して学生に読む練習をしてもらいました。学生 には先ず点字による五十音表(白丸と黒丸の)を配布し、一応説明してから、ごく簡単な 点字の文章(これも白丸と黒丸の)を配って五十音表をいちいち参照しながらでよいから 読むように指示しました。初めて点字を見る学生でも30分も真剣に取り組むとかなりス ピードで読めるようになり、速い人は1時間もすると五十音表をいちいち参照しなくても すらすら読めるようになってしまいます。
 こういう体験をしてしまうと、もう点字が怖くなくなるので、凹凸のある本物の点字を 見せても、凹の側からですがたちどころに読んでしまいます。そして学期末のテストの際 には問題の後半に点字の文章を墨訳させる問題を入れます。200字〜400字程度の短 い文章ですが、みな真剣に取り組みます。年に100人以上の受講生のほぼ全員(たぶん 90%以上)がこうして点字に対する自信を持ってくれました。そういうことは私にワー プロが無ければ不可能なことでした。

   3、機械導入の意味は?

 初めのところでふれた東京都養護学校の教師グループの研究会の人たちの場合には、授 業の中に直接ワープロやパソコンを持ち込んで行なうという事例が多いように思われまし たが、私の場合はワープロによる製作物だけを授業に持ち込んだのでした。だから私の場 合、授業中の学生にはワープロの機械そのものもワープロ操作も見えません。ですから両 者を同じようには論じられないとは思いますが、私が最先端の機械を授業に利用している ことは確かなことです。さて、そのこととは全く別のことですが、和光大学には本物の点 字の文章を、凹凸そのままにコピーする機械があります。点字の元紙に厚手ビニールを重 ねて熱で処理するのだそうです。ここでも機械は使われています。そして多くの人たちか らたいへんに重宝がられています。とにかくわれわれは、全てではないかもしれないけれ ども、機械を利用する方が明らかに良いというばあいもあることを確認しないわけにはゆ かないと思うのです。
 そしてその有用と思われる機械の一部は、最近では人間の体内にも入って役立っていま す。心臓の鼓動を助けるペースメーカーがそれです。それによって世界中の少からぬ人々 が恩恵をこうむっているのです。

    4、人間と人工物とのなれあい
 
 しかし考えてみると、ペースメーカー以前にもすでに身体の中に入り込んで役立ってい た人工物がありました。それは機械というより道具ですが、機械が道具から発達したもの であり機械も道具の一種と考えられることなどからすると、それは人間の体内で役立った 最初の人工物ということになります。それは入れ歯です。
 しかし、そもそも一本の歯の治療ですら人工物の体内への挿入が行われることもありま す。小さいものでは虫歯の部分を削り取り、そこへアマルガムを詰め込む例があります。 最近ではプラスチックを埋め込むそうです。もっと悪化した歯には、虫歯部分と歯の周囲 を削り取りその上に金属や陶製やプラスチック製の人工歯冠を被せてしまうこともありま す。それらは一種の道具です。ほとんどの日本人はそういう治療を受けているのではない でしょうか。それらは明らかに体内に入り込んだ道具類なのです。
 コンタクトレンズもそれに近い道具だと思います。そういえば、体内に入り込んだとは 言えないけれど近視・遠視・老眼などの眼鏡にしろ小型補聴器にしろ、自分の身体に密着 し、その存在すら忘れて日常生活を続けられるような道具・機械類がありますが、それら もすでに自分の身体の一部のようなものといってよいのではないでしょうか。もともと外 部の物体を身体の一部の代用品、或いは身体機能の代替物として組み入れているのに、そ のことを忘れてしまうほど身体に密着し自然に機能している状態、そのことによって身体 の障害と思われた機能が回復して自然に生活できる状態を保証してくれる道具や機械、そ ういう人工物がすでに多く存在し、これからも増加していく傾向にあると思われます。
 更に将来をみやると、これまでは、骨折した手や足の骨を補強し骨が自然治癒して接続 状態になるのを補助するための金属片を一時的に埋め込む手術が行われたりしていますが 、やがては陶製その他の人工骨格を一生取り出さないで身体の一部として埋め込まれる可 能性もあると聞きます。人工骨格の他に人工関節も成功するだろうと言われています。ま た、人工心臓もやがては成功すると考えられているようです。人工血管の発明も成功する と考えられているようです。人工血液もそう遠くない将来には成功するのではないかと言 われている重要な発明品です。もしそうなれば他人の血を輸血する必要もなくなるし、献 血も必要なくなるでしょう。目の角膜も人工的なものが発明されるかもしれませんし、聴 力を得るのための人工聴覚器官の発明も成功するかも知れません。そうした人工的な臓器 や器官が発達すればするほど、身体機能の障害とみられていたものが機能を回復し障害で なくなる機会が増えるのではないでしょうか。
 私が少年の頃の話ですが、月刊の少年科学雑誌『子供の科学』に或るSF記事が載って いました。当時小学生だった私はその記事の内容があまりに衝撃的だったので今でも覚え ています。それは主人公の少年が叔父さんの勤めている科学博物館の中に設置されている タイムマシーンを使って百年後の未来世界へ行ってみた話でした。その少年の目の前に巨 大な機械が置かれておりその機械が少年に話しかけてきました。話しているうちに判った ことは、その機械は実は人間で脳味噌だけはもとのままですが、手も足もあらゆる筋肉部 分も皮膚も内臓もすべて人工物になってしまったとのことです。その脳は150歳で、そ の巨大な機械こそ実は科学博物館に勤めていた少年の叔父さんの未来の姿なのでした。叔 父さんの話では、初めは心臓がだめになって人工心臓に代えられ、次に腎臓がだめになっ て人工腎臓に代えられ、次に肝臓がだめになって人工肝臓となり、そのうち胃や腸や膀胱 も人工物に代えられ、目や耳も機械に代えられてついにこんな姿になってしまったと少年 に語るのでした。少年はすごいショックを受ながら、科学の未来に思いをはせるというS Fでした。
 そのように、人間の身体部分や身体機能を人工物で代えるという方向は、現在あちこち で問題になっている「臓器移植」を推進する方向とは違うように思います。思想的にはむ しろ正反対の方向といってよいのではないでしょうか。ただ誤解が生じやすいので若干の 補足をしておきますと、医療の現場をちょっとみただけでは人工臓器開発は臓器移植と深 く関連し、むしろ両者は連続的に見えるかもしれません。医療技術の実際を眺めると、臓 器移植を行なうためには確かに高度に複雑な人工臓器システムの助けを借りなければなら ず、人工臓器を一時的なつなぎとしながら他人の臓器を移植する方法が取られているので 、両者は深く関連し同時に連続的に見えるかもしれません。しかし、そこでは人工臓器と いう道具が臓器移植のための補助手段として利用されているのであって、それは人工臓器 の使われ方の一つに過ぎません。そうした考え方とは違って、初めから臓器移植など一切 考慮しないで人工臓器の完成のみを目指すという研究方向もあるはずです。おそらく人工 臓器の開発が最初に行なわれたのはそういう方向だと思うのです。さきほどの『子供の科 学』のSFはそういう考えに基づいていたようです。しかし臓器移植のアイデアが、発達 した人工臓器を前提に発展し実施に移されたのもほぼ確かなことのようです。つまり、現 実問題としては臓器移植のための補助的手段としての人工臓器の開発という方向と、人工 臓器一本で進む方向とは、その思想において根本的に違うように思われるのですが、技術 の発達過程では相互関係が生じないわけにはゆかないようなのです。それはちょうど軍需 技術と平和産業技術とが結果的にはどうしても入り組んだ相互関係になってしまうのと同 じことだと思います。
 それはともかく、道具や機械の利用が単なる手・足の延長といったようなものをはるか に越えて、とてつもない広い範囲での、無数の分野にわたるところの、望ましいと思われ るありとあらゆる行為を、みずからの肉体的限界を越えて実現させることを目指し、その 実現可能性は無限に近いとまで言えるかもしれないのです。それはまた、身体から失われ たと思われる機能を次々と回復させ、道具や機械の力で身体障害を無くしていく方向のよ うに思われるのですが皆さんはどうお考えでしょうか?

   5、道具の利用と「ありのまま人間」の消失

 さきほど歯の治療のことをとりあげました。歯はすべての野生動物にとって生死を左右 するほど決定的に重要なものですが、人類は歯の障害を克服するために口の中に人工歯を 導入することによって解決してしまいました。今では口の中に自分の本来の歯が一本もな くても、優れた入れ歯を装着してしまえば身体に障害があるとは誰も思わないでしょう。
 歯ばかりではありません。次に視力の問題を考えてみましょう。視力といっても若い頃 から問題になる近視についてとりあげてみたいと思います。
 多少ともこれは推定の話になってしまいますが、江戸時代には近視の人はかなり困った と思います。士・農・工・商の時代ですから、町人でひどい近視のばあいには道路で武士 に突き当たって無礼打ちに切られてしまう危険や、或いは武士の乗る馬や駕籠に跳ねられ 怪我する危険性がつねにあったといえましょう。だから周囲の人たちが何やかやと気を配 らなければならなかったと思います。じっさいのことは調べてみなければわかりませんが 、江戸時代のような昔においては、近視の人でも周囲の人たちの介助があれば深刻な身体 障害とはならなかったでしょうが、もし周囲の人たちの介助がなく孤立した状態だったと すれば、極めて危険であったと思われます。しかし現代では近視であることがなんら障害 とはなりません。かりに周囲の人たちの介助がなくても眼鏡やコンタクトレンズをつけれ ばよいからです。周囲の人たちの介助は近視以外の別の身体障害に向けることができるこ とになります。
 この江戸時代の近視の例は、一つの思考実験に過ぎませんが、かつて介助なしでは深刻 な身体障害であった身体的弱点が、道具や機械の発達によって身体障害とは意識されなく なるという事例を示していると言えるのではないでしょうか。また現代の人工歯冠のばあ いにも、多くの人がそれを口の中に装着していることをほとんど意識することなく日常生 活をいとなんでおり、もちろん身体の障害としての意識など全くないのではないでしょう か。しかし、そうして生活している人々はすでに生まれたまま・・ありのままの人間では なくなって来ていることもまた事実なのです。
 いうまでもなく皮膚を防備する衣服にしろ、足を保護する履物にしろ、それなしでは生 活できないのが世界中の人類のほとんどであり、生まれたままの身体だけで生きている人 々はきわめて少ないと思われます。にもかかわらず、人々は衣服を着ていることや履物を 足にはいていることなどほとんど忘れて仕事をしたり遊んだりしています。
 さらに加えて人類の多くは生まれてから老齢化するまでの過程においてさまざまな人工 的操作を身体に加えています。さまざまな予防注射類もその一つです。盲腸の手術を初め 、潰瘍・癌などの摘出手術などは言うまでもなく身体に対する直接的人工操作です。また レントゲン写真を撮ったり、血液検査をしたりするのも身体に対する人工操作であるし、 医薬品を飲んだりするのもそうです。それらは、ごくわずかずつではありますが身体に人 工的影響を与えつづけています。今では食品添加物も少なくありません。人が一生の間に 体内に取り入れる異物としての人工添加物はそうとうな量でしょう。自動車の排気ガスや 有毒な粉塵もばかになりません。特に近代的都市に住む住人にとっては危険な存在です。 それらは全て人工的なもので、人間が考えだした一種の道具から生じたか、道具を作る過 程で生じたかの何れかのばあいがほとんどです。しかも自動車・電車・飛行機などの乗り 物関係の機械は、しばしば交通事故を起こし、そのため人間の生命・身体は破壊されます 。その他、自動車や飛行機のエンジンが出す超音波による害、放送電波や電子レンジの出 す電磁波による害などによって身体はむしばまれているようです。
 人間の作ったさまざまな道具類は、一方では身体の障害を無くする方向で役に立ちつつ ありますが、他方では次々と新しい身体の障害を作る方向で害を及ぼしているのです。
 そうした中で生きつづける人間たち・・特に都会に住む人々は、生まれたまま・・あり のままの人間ではありえないわけです。

   6、ありのまま人間の消失は人類の歩みそのもの

 道具や機械の発達によって人間はありのままでなくなってきています。しかし、よく考 えてみると、もともと人類はその最初の段階からそういう存在であったようです。特に火 を発見し寒さと戦う技術を学び、豆類や穀類のような硬くてそのままでは食物になりにく いものでも食しうることを知り、人類は大きく飛躍しました。火は自然物を人工的に加工 して利用するための最初にして最大の道具だったのです。おそらく火の利用によって、生 まれたまま・ありのままの存在でなく人工的方向に進んだことと、先祖の動物が人間にな っていったこととは同一の過程のようなのです。
 人間はかなりの昔から地球全体に広まって住んでいますが、熱帯の暑い地方から凍るよ うな寒い地域にまで広がったのは今からほぼ100万年前だと言われています。その頃と いうのは実は人類が火を道具にした段階と一致します。北京原人やジャワ原人などでおな じみの「原人」が誕生した時代です。すなわち真の人類の誕生です。
 それいらい人類は地球の広い地域・・気候風土や生物生態がさまざまに異なった地域で それぞれに工夫しながら生活をしてきました。その結果、生物としては一種であるにもか かわらず、生物としての個体差は大きくひらいてしまいました。典型的なのは肌の色です が、その他、目の色、髮の毛の色や形、鼻の形、瞼の形と厚み、体型など多くの点でひら きが大きくなりました。ましてその日常生活様式はおどろくほど多様化し、その原因でも あり結果でもありますが、限りないほどの多種多様な道具や機械が駆使され地域ごとに改 良・工夫され、さまざまな文化が発生しました。人類は、動物学でいう形態学的な分類方 法によっても、生態学的な分類方法によっても、とうてい一種類の動物とは思えないほど 多様化してしまっているといわれます。したがって肉体的にも精神的にも標準人間などと いうものは存在しません。標準を決めることなどとうてい不可能なほどひらきが大きくな ってしまっているのです。ところが、動物の種が同種か異種かを決定するための極めて重 要なキーの一つである混血が可能かどうかという点からみると、明らかに地球上の人類は 単一の種なのです。
 しかし、どの地域に住む人間たちも、どの文化の人間たちも、共通しているのは火を使 い、生まれたまま・ありのままの人間ではない生活を築き、いとなんでいるということで す。熱帯地方から極寒の地域まで広い範囲にわたって多様化した生活をしたため、それぞ れの価値基準も多様化し平均的な人間像とか理想的人間像を作ることが如何にナンセンス であるかを示しているとも言えます。しかし野生動物ではそうはゆきません。彼らはあく まで自然に生きる存在なのです。

   7、自然の中で自然に生きる野生動物

 例えば、暑さ・寒さに対しては人間はかなり昔の時代から衣服の厚みを調節することで 安心して生活できる技術をもっていました。しかし、それは人間以外の野生動物には出来 ないことです。気候風土の条件は人間以外の動物たちにとっては生活上決定的なもので、 それに適応できない個体は死を意味するかもしれないのです。
 野生動物にとって生活上の制限は単に暑さ・寒さだけでなく、他にもたくさんあります 。人間のばあい、やたらに喉が渇き水分を欲する人がいます。人間なら水を飲んだり、ジ ュースを飲んだり、ビールを飲んだり、お茶を飲んだりします。しかし野生動物の場合に は水を飲むのですら、そう簡単ではありません。水場にゆかねばなりませんが、水たまり や池や川などが豊富にあるような特殊地域ならいざしらず、アフリカをはじめ世界の広い 地域では水を飲むための水場への単独行動はそんなに簡単にはできないのです。動物の種 類にもよりましょうが、多くの動物にとっては単独行動すれば危険だし、第一そういう各 個体が自由に動き回れるような生活様式をもっていないのが野生動物たちのほとんどでし ょう。
 食べること・飲むこと・休むこと・眠ること・遊ぶこと・子を育てること、その他多く の日常生活が、動物の種によってそれぞれ特徴のある生活様式にパターン化されているよ うですが、それがその種の動物たちの安全な日常生活を維持し、子孫繁栄にもつながって いるわけです。しかし、同時に、そうした自分の所属する種の生活様式に耐えられない生 物個体は死を待つことになりましょう。ということは野生生物の場合、肉体的にも精神活 動の面でも、動物の種によって或る一定の標準のようなものがあり、怪我をしたり病気に なったりしてその標準体力や標準的感覚能力を失うとたちまち死に近づいてしまいます。 翼に怪我をした鳥は長くは生きられないし、どれか一本の足に怪我をしただけで四つ足動 物は生命に危険が生じます。アフリカゾウが人間保護区で人間の作った有刺鉄線で鼻に大 怪我した例があるそうですが、ゾウのばあいは鼻の怪我でも命を危険にするといいます。 視力に障害が生じても、聴力に障害が生じても生命が危険にさらされます。嗅覚に障害が 生じてすら危険です。また歯の治療が日常化している人間にとっては何でもない歯の故障 も、野生動物にとってはそれこそ致命的のようです。生まれつきの障害を持つ個体の場合 も同様、産まれてすぐから生命の危険にさらされます。そのように、常に標準から外れる 個体が淘汰されつづけているのが自然状態における野生動物の状況です。人類が道具や機 械によって文化だけでなく生物個体すらも多様化してきたのとは反対に、野生動物たちは 常に能力的に均一化する方向、種によって定まった標準個体・標準能力を維持しようとし 、それから弱い方向に外れた障害者は常に淘汰されてきた存在といえましょう。
 均一化を維持しつづけて生きてきた野生動物に対して、人間は違った道をとりました。 例えば或る個人の身体機能がその所属集団の要求水準より弱くて困る場合には、二つの面 から解決してきました。一つはその個人の周囲の者が介助したり、社会制度的に介助する 方法。もう一つは、弱点と思われる機能を道具や機械の利用によって補強する方法です。 実際、人類の長い歴史はそのことを裏付けているように思われるのです。

   8、人間のばあいには障害者の基準は存在しないはず

 ときどき「健常者」という言葉を耳にします。「障害者」に対する言葉として作られた と聞きました。しかし、人間と道具・機械との関わりの歴史を考えてみると、この二つの 言葉は私には何れもあまりよい言葉とは思えないのです。
 というのは、人間の場合には、文化的にも肉体的にもあまりに多様化してしまっている こともあって、そもそも「健常」とは何かという基準を作ることそれ自体が極めて難しく 、したがって論理的にいってその反対の「障害」とは何かという基準を作ることも出来な いことになるわけです。もっと言えば、そういう基準を作ることが原理的に不可能な生物 こそが人間なのではないかと思われるということです。
 要するに身体障害とはその人の所属する社会の中で日常生活がさしつかえるような身体 の状況をさしているように思われます。そのさしつかえを無くすることのできる道具がで きると障害はなくなりますから(例えば近眼の眼鏡とか入れ歯とか)、社会的にはその機 能に関しては身体障害とは言えず、したがって身体障害者でもなくなってしまうのです。 すぐれた道具が未だ完成できていないばあいでも、もしその社会の状況が相互介助の文化 をもっていれば誰でも日常生活にさしつかえが生じないような状況となり、やはり身体障 害は無いのと同じになるのではないでしょうか。しかし真にすぐれた道具や機械が作られ るならば事態はいっそう良くなると思われます。
 同じことですが、ある地域では「健常」であるはずのことが他の地域では生活上の「障 害」になったりすることは少しもめずらしいことではありません。したがって標準人間の ような概念や標準になるような「健常」状態というものが規定できないばかりか、そうし ようとすること自体がナンセンスなわけです。同じことを裏側からいえば、生活上の「障 害」とは何かの基準を規定することも困難になってくるわけです。人間のばあい健常と障 害はきわめて相対的なものになってしまっているということです。
 それにもかかわらず現実には「障害者」という概念が厳然として存在しています。生活 における「障害」概念がきわめて相対的なものであり、健常とは何かということも規定で きないはずなのに、社会的には「障害者」概念が存在し機能しているわけです。その理由 は何かということが問題になります。

   9、「障害者」概念はどうして生じたか?

 現代の人間社会では「障害者」概念がまかり通っています。しかしそれは、人権を無視 されがちな側と、それに対立している特権的な側との力関係、利害関係から発生した一種 の「社会概念」なのではないかと思うのです。
 その論理は食品添加物の許容量とか放射能の許容量などで使われる「許容量」という概 念によく似た性格をもっているように思われます。物理学者の武谷三男氏は氏の著書『安 全性の考え方』(岩波新書)の中で「許容量」という概念は一見自然科学的な概念のよう に思われるかもしれないが、実はそうではなくて、それは「我慢の限界」を示す社会的な 概念なのだと説明しています。いま手元にその著書がないので正確な引用はできないので すが、考え方の基本はそういうことです。身体障害とか健常とかいう概念もそれによく似 ていて、その人が住む社会集団の中で、その人の行動がどう現象するか、「障害」として 現象するのか「健常」として現象するのか、しかもその障害状態や健常状態は周囲の人達 の理解とか介助の有無によって変化する現象であり、道具や機械の在り方にも関係してい ます。そうした状況の中において、法律的規定によって「障害者」概念を作り、その基準 を作るという作業は、その社会における福祉政策上の必要からでしょうが、他方では無理 に基準を作ることによって、いなくてもよいはずの「障害者」をわざわざ作り出している ことも事実であると言えるように思うのです。

   10、今回のあとがき

 今回の私の文章では、新しい機械が導入されると拒絶反応する人もいるという話題から 出発したにもかかわらず、その「拒絶反応」については一切ふれず、道具や機械に対する 肯定的な面のみをとりあげました。私の今回の主なテーマは、人間というものが本来動物 でありながら自身の生活の仕方のみならず自身の身体にまで人工的手段をさまざまに駆使 してその自然状態に加工を加えて来て今日に至ったということを確認することでした。
     
               *
 次回は、かの拒絶反応の問題に関して考えてみたいと思います。ただ、私は9月草々、 アラスカ・カナダ・アメリカ本土などを目指して渡航します。そこで次回はたぶん来年の 1月頃に書かせていただくことになると思いますが、よろしくお願い致します。

     
           (1990年8月29日)