私の見るこれからの消費者像



                                    岩城正夫

 もう何年か前になると思うが本格的なコーヒーを自動的にドリップしてくれる機械が発 明された。私の職場などでも何台か見かけるし、馳走になることもある。なかなか美味い ものである。ずいぶん普及しているらしいが私の家には無い。それを使う人の話では、コ ーヒーを入れる際の微妙な湯加減・湯の注ぎ加減を自動的にやってくれるのでとても助か るという。
 私はそれを自分の手と自分のタイミング判断でやるのが楽しいので、そういう機械は使 わない。どうしてそれが楽しいのか自己分析してみると、操作の途中で繰り返される段階 ごとの経過予測や経過確認が関連しているらしい。予測には結果に対する不安が必ずつき まとう。毎朝同じような操作を繰り返しているのだが、ちょっとした油断で不味いコーヒ ーになってしまう。だから操作のあらゆる段階で不安と安堵が繰り返され、そのことが結 局は面白いと感じられるのである。
 コーヒーを入れる自動機械に限らないが、ワン・タッチで操作できる自動機械には失敗 というものがない。だから不安もない。それは一面では便利さをもたらしつつ、他方で欲 求不満をも作り出すような気がする。不安やスリルが何も無いというのは緊張感を消失さ せ、それへの興味を失わせるからではないかと思われるのである。
 ところで人類は大昔から火を使って生活してきた。北京原人が有名だが40〜50万年前で ある。火で暖をとり、肉を焼いて食べた。しかし、火が作れるようになったのはずっと後 で、たかだか数万年前のことである。それまでは火を消さない方法に頼るしかなかった。 しかしついに人類は火を作ることに成功した。作るのがむずかしかっただけに、その感激 は大きかったろうと思う。
 日本でも奈良時代頃までは普通には木と木とを摩擦させて火を起こしていたらしい。さ て、摩擦によるその古代発火法で、現代の私たちが火を実際に起こしてみると、それは何 とも感激的な体験となる。大人でも子供でも例外なく大喜びする。火起こしに成功すると 、もう人にしゃべらずにいられなくなる。そしてやって見せたくなる。それほど嬉しいし 感激も大きい。なぜなのだろうか。その理由を考えてみると、摩擦で火を起こすには一連 の段階的な操作があり、微妙なタイミング判断とそれに応じた手動作の微妙な変化がとも なわなければならない。たった1分間ほどの操作だが、一瞬の操作ミスでも火作りは失敗 してしまう。スリルと緊張の連続する全力投入の1分間である。そのむずかしい課題に自 分の手と頭脳が打ち勝ったのだという喜びである。
 だが、おなじ火でもライターでつけたのでは感激は無い。そこには失敗がなくスリルも ないからであろう。しかしライターそのものを初めてこの世にもたらした行為すなわちラ イターの発明そのものは感激的だったろう。ただしその感激は発明者のものである。
 同じように、便利なワン・タッチの機械を発明することは素晴らしく感激的な行為だと は思う。しかし、量産されたそれを購入して使う人は、初めのうちは面白がって使うがや がて飽きてしまうのではないだろうか。そこには緊張感もスリルもないからである。
 これからの消費者は、きっとそういう面にも目を向けてゆくのではなかろうか。
1988・8/31

                       〔和光大学教授(原始技術史専攻)〕