エッセイ ・ 「ヒト」の成長と技術の発達-------------- 岩城正夫
〔以下の文章は1977年に執筆された論文である。技術教育の専門誌『テクネ』の創刊 2号から転記したものである。これを見ると今から30年前、すでに筆者が技能は技術の 一種だと考えていたことは明らかである。またここで展開された論理はその後『原始技術 論』(1985年)の中でも述べられている。さらに『セルフメイドの世界』(2005年)で最終確認をおこなっている。…2008年10月岩城記す〕

「ひ と 」の 成 長 と 技 術 の 発 達--------------  岩城正夫

    1.むずかしいヤリ投げ

 子どもの成長は速いもので、幼稚園に通うようになると急に動作が活発になるようだ。 そして小学校へすすむと更に一段と動作はきびきびしたものとなる。しかし、それでもう まくいかないのがヤリ投げである。もちろん子ども用の軽いヤリを使用しての話である。 ボールや石を上手に投げられる子どもでも、ヤリとなるとかならずしもうまく投げられな い。力の問題ではなさそうである。
 その理由を掘り下げていくと技術の何たるかが多少わかりかけてくるように思われる。 また、そこから人の成長と技術の発達に関するか仮説的解釈も可能になりそうである。
 が、問題の核心に入っていくまえに、一つ二つ予備的なことがらを明らかにしておきた い。それは、ものを投げるという動作を物理学的に一応みておくということである。ただ 一口に物を投げる動作といっても、野生チンパンジーがやるようなアンダースロウによる 石投げもあれば、ブーメラン投げのようなむずかしい動作もあるから、それぞれについて ひととおり分析しておかなければならないだろう。
 まずブーメラン投げについて考えてみよう。ブーメランは回転しながら飛ぶものである 。その投げの動作を分析してみよう。ブーメランをつかんだ右手は、後方から前方へすば やく移動させることによって、前方に向かうほぼ水平方向の加速度運動をブーメランに与 える。が同時に、手くびを使ってスナップをきかせるような要領で回転運動も与える。そ の二つの運動が合成された形でブーメランは投げられるわけである。
 しかし問題はそれだけではない。投げの動作によって、はじめ静止状態であったものが 相当のスピードを加えられたわけだが、手から離れていないうちは、手そのものもブーメ ランと共に加速されていることになる。それはほんの1秒の何分の1かもしれないが、手 とブーメランはいっしょになって回転しつつ、前方方向への加速度運動をすることになる 。そしてブーメランに必要な回転速度と前方方向への速度が与えられた段階で、瞬間的に 指を開いてブーメランを手離すわけである。その瞬間は、一般的にはもうこれ以上ブーメ ランに加速度を与えることができないというぎりぎりの肉体限界のところでもある。とい うことは、その瞬間は手が加速度運動から等速度運動に変化し、更に次の瞬間には逆に動 きが鈍ることを意味している。だから手離すタイミングがちょっと遅れれば、せっかくス ピードを得たブーメランが、自分自身の手によってブレーキをかけられることになる。
 ではヤリ投げの場合はどうだろうか。ヤリを握った手を後ろから前へ加速度運動させる 。ヤリは手と共に加速されて前へくる。腕が完全に伸びきる寸前で指を開く。つまりその 瞬間までは加速度運動が可能なのである。ヤリを握ったまま腕が伸び切ったのでは、せっ かくスピードのついたヤリにブレーキがかかることになる。
 子どもがヤリ投げをやってもうまくいかない原因の多くは、ヤリを握った指を開くタイ ミングが遅れることである。子どもにそのことを注意してやると、こんどはヤリをゆるく 握りすぎて、すっぽぬけ現象のためヤリがうまく加速されなかったり、また握った指をヤ リがまだ加速されないうちに開いてヤリを手離してしまったりする。
 そういうむずかしい投げ動作に対し、チンパンジーのやるアンダースロウがなぜやさし いかを説明しよう。この投げの場合、石を握りしめる必要はすこしもない。手のひらをス プーン状にし、その凹みに石をのせた状態のまま手を後ろから前へ動かす。手と石は同時 に加速されていくが、やがて手は前に伸びると共に減速される。ところがすでにスピード のついた石は、自らの慣性で前へ飛び出していく。手は石を握りしめているわけではない から、石は簡単に手からすっぽぬけて飛んでいくのである。この投げ方なら人間の幼児に もできる。

   2.その時の精神活動

 ヤリを握ったり、腕を動かしたり、指を開いてヤリを手離したりするのは全て筋肉の働 きだが、その動きを連続的に次々と命令するのはいうまでもなく脳である。そのさいの脳 の動きを、ここでかりに精神活動とでも呼ぶことにしよう。ヤリを投げるさい、どんな精 神活動が行なわれているのかを次に考えてみたい。
 まずヤリをとりあげ、右手でそのなかほどを握る。もう少し後ろの部分を握った方がよ いと判断し握りなおす。しかし後ろすぎたと判断し、また手をほんの少し前にずらす。ど うやらいいようだと判断する。握る指の力はあまり強すぎはしまいか、もう少しゆるく握 ろうと判断する。右手をうしろに引く。投げのかまえに入ったわけである。さて以上みた だけでもあちこちで細かな判断をいろいろとやっていることが確認できる。
 次に投げの最後の瞬間、ヤリを手離す瞬間を考えてみよう。慣れればほとんど無意識の 動作なのだが、それでも脳からはちゃんと指を開けという命令が筋肉に出されているから こそヤリ投げができるのである。しかも指を開くタイミングは一瞬早すぎても遅すぎても うまくない。その瞬間をちゃんと脳が判断して筋肉に指令を出しているのである。
 そういうタイミングはどのようにおぼえるのだろうか。一般的には次のような経過をた どる。まずヤリを何回か投げてみる。一番うまく飛んだときは筋肉の感じはどうなであっ たか、また手離す瞬間はどんな感じのときがよかったかなどが感覚的にわかってくる。ま た、そういう感覚のとき、ヤリはどのくらいのスピードで、どの方向に、どれくらい飛ん だかを、目でみたり、音を耳で聞いたりして記憶する。それが基礎になって、次のヤリ投 げ動作の個々の部分動作をチェックし、判断する。
 ヤリ投げという単純な動作を一回行なうだけでも、ヤリを手にしてから投げ終わるまで には数えきれないほどの判断が行なわれていることがわかる。
 しかしそれらの多くの判断内容は、およそ次の三種類に分類できるように思われる。
 (1)筋肉の動きに関する判断
 (2)時間経過に関する判断
 (3)三次元空間における大きさ・距離に関する判断
例えばヤリの中ほどを握るとき、中ほどの見当をつけるのは(3)の判断だし、ヤリを遠 く飛ばそうとして右手を大きく後ろへ引いたり、投げたりするのはみな(1)の判断だし 、さいごにスナップをきかせたり、手離したりするのは、(1)であると共に(2)の判 断も加わっている。つまり(2)はタイミングの頃合いをきめる判断も含む。(2)はま た、手離したヤリがどのくらいの時間飛びつづけるか、むこうから飛んできたヤリがあと どのくらいで落ちてくるかなどの判断を含む。
 以上三種類の判断は、どれも感覚的なものとしてとりあげたのであるが、ヤリの長さと か飛ぶ距離などはスケールによる実測が可能だし、ヤリの飛ぶスピードなども実測可能で あるから、それらに関する感覚的判断は客観的手段でつねに矯正することもできる。しか し筋肉の動きの感じに関する判断は、自分だけが知っているものである。また時間経過に 関する判断も、筋肉動作と結びついたもの、とくにタイミングをとるような判断はやはり 自分だけにしかわからない。
 ヤリ投げなどの動作を行なうときの精神活動には、以上みたような三種類の判断が多く 含まれており、しかもその動作を行なっている本人にしかわからないような判断が、たく さん含まれているということを知るべきである。
 そしてそれらの個々の判断は連続的に正しくなされねばならず、それらの判断に導かれ て部分部分の小動作がつみ重ねられていく。それら全体の積み重ねがあって、ようやく一 回のヤリ投げ動作が完了するのである。
 私は右のような数多くの連続した判断を正しく行なうという精神活動こそが、その動作 (例えばヤリ投げ)における技術なのではなかろうかと考えているのである。

   3 技術における二つのタイプ

 私は以前から、技術とくに動作に関係した技術をオリガミ・タイプとナワトビ・タイプ という二つのタイプに分けて考えることにしている。
 オリガミ・タイプと名付けたのは、オリガミで折り鶴などを折るときの技術に代表され るからである。この種の技術では、前節でのべた三種類の判断のうち、筋肉の動きに関す る判断と三次元空間に関する判断は必要とされるが、時間に関する判断は必要としないこ とを特徴としている。つまりタイミングをとる必要もないし、時間経過を気にする必要も ない。オリガミを折るには2〜3分ですませてもよいし、とちゅうで休み、何時間かけて やってもよい。それでも、さいごまでやればツルでもユリでも折れるのである。
 それに対して、ナワトビ・タイプの技術とは、多くのスポーツがそうであるように、タ イミングをとる必要のある動作を含むものである。ヤリ投げはもちろんこの中に入る。野 球も卓球もテニスもみなこのタイプの技術を必要としている。ナワトビは、そうした中で 最も単純かつ象徴的な運動である。動作としてはただ10センチほど飛びあがるだけにす ぎない。しかし問題はいつ飛びあがるかである。ナワがおりてきて足のすぐ前まできたと きに飛びあがる。一瞬早くても、また遅くてもナワは足くびに当たってしまう。筋肉感覚 と時間感覚と距離感覚に関する判断が同時になされなければならない。その点、ヤリ投げ の技術と共通なものをもっている。
 およそ仕事にしろ、遊びにしろ、スポーツにしろ、そこにはそれなりの技術がある。そ して、それらの技術を動作に関係した面からみると、かならずさきの二つのタイプがみら れるであろう。もちろん中間のものもあるし、両者が複雑にからみ合ったものもある。し かし要は、それらの技術の特徴をいちはやく見抜くのに、さきの観点は有効だろうという ことである。
 そして一般的に、オリガミ・タイプの技術は未経験者でも最初からとりくむことができ るのに対し、ナワトビ・タイプの技術ではある程度の予備的練習をしてからでないと、と りくめないということである。それは決して、前者がやさしい技術だとか、後者がむずか しい技術だとかを意味するものではない。オリガミ・タイプでは、時間に関係がないから 、初歩の人にはいくらでもゆっくりしたマイペースがとれるのに対し、ナワトビ・タイプ では最低のスピードというものが最初からあって、どんな人でも、そのスピードに合わせ るようにまず自分を変えていかなければならないから、多少の時間がかかるというだけの ことである。

   4 技術の発達とは何か

 小学生にとってヤリ投げがうまくいかないのは力の問題ではなくて、ヤリを手離すタイ ミングが遅れるためのようだとはじめにのべておいた。タイミングが遅れるのは、時間経 過に関する判断がうまくいかないということもあろうが、同時にそれは、自分の手の筋肉 動作の感覚がよくつかめていないということでもあるだろう。
 ところが高校生の男子などにやらせるてみると、ヤリ投げを一度もやったことのない生 徒でも、上手にとはいかないまでも最初からヤリを投げることができるのがふつうである 。
 ヤリ投げの経験のない高校生が、最初から投げられるということは、ほかの動作で身に つけた経験がヤリ投げに役立った、あるいは応用されたとしか考えられない。
 またよく見聞きすることだが、ある球技にすぐれた人は、未経験の他の球技のコツをふ つうの人より早くつかむし上達が早い。もし人間が何かの動作を学び、身につけたとき、 それが他の未経験の動作にぜんぜん役立たないのだとしたら、人間は無限に動作を学ばな ければならないことになってしまう。しかし事実はその反対で、明らかに応用がきくこと をわれわれの体験が示している。
 よくスポーツの練習では、無意識に身体が反応するまで訓練を重ねよという。相手がこ う出たときにはこうだ、などと考えているようではまだまだだめで、それに対する反応が ひとりでに出るまで稽古しろという。時にはそれは条件反射にたとえられたりする。しか し明らかに反射ではない。反射的に早い反応ではあっても、ちゃんと変化に対応して判断 された動作がなされるからである。しかも、そういう激しい稽古をやった場合、かえって 他の未経験のスポーツに応用がきくと思われるふしがある。
 だからわれわれは、ここに仮説的解釈を行なわざるをえない。すなわち人間が一つの動 作を学習したはあい、その動作以上の何ものかをも身につけたことになる、と。
 その何ものかとは一体何か。それはまえにのべた
(1)筋肉の動きに関する判断力。
(2)時間経過に関する判断力。
(3)三次元空間における大きさ・距離に関する判断力。
などの向上ではないのか、と。
 しかもそれは無意識の世界に大きくふみこんだ精神活動と考えられる。そこには、われ われにとって技術論上、未知の大問題がひそんでいるように思われる。
 右にのべた仮説的解釈は、オリガミ・タイプの技術にも、もちろんあてはめるべきであ る。ナイフでエンピツが削れないということ、靴のヒモが結べないということは、指先の 筋肉の動きに関する判断力が極めて低次元にとどまっていることであり、三次元空間の距 離に関する判断力も低いままであるということである。その現状を放置することはその方 面での作る楽しさや創る喜びの欠落した人間、また生物としての生活能力の弱い人間を育 てるということにもなるだろう。
 われわれは、このあたりで、筋肉を使う技術について根本的に考えなおす必要があるの ではないのか、またそういう立場から、機械化されすぎた教育環境を反省する必要がある のではないのか、私はそう思うのである。(1977年04月執筆)
 『テクネ』(工作教育の専門誌, 1977年4ー7月号〔創刊2号〕掲載)

 

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