フォーラム(道具学会主催ー2007年1月13日)
心と道具
ーーーーーーーーーー 岩城正夫
〔このフォーラムのパネリストは次の5人で、発言順に東昭(東大名誉教授)、
石毛直道(国立民族学博物館名誉教授・前館長)、岩城正夫(古代発火法検定
協会理事長・和光大学名誉教授)、川田順造(神奈川大学大学院教授)、中村
桂子(JT生命誌研究館館長)。ここでは、その中から岩城正夫の問題提起部
分のみを掲載する。『季刊道具学』No17より転載〕
石毛さんのお話を伺って思ったのですが、このプログラムのテーマは実行委員会側でこ
しらえたもので私がつくったのではありません。しかし、それをあえて直さなかったのは
、私の本を非常によく読んでくださっているな、本質を捉えて下さっているな、と思った
からです。ただ、非常に違うところもあるので、それをこれから申し上げます。
私のところは「こころと道具」というタイトルになっていますが私は「こころと道具」
なんてこれまで一度も思ったことがないものだから、初めはすごく抵抗を感じてびっくり
したんです。でも、よく考えてみると「ああそうか、他人がみると、私の言っているのは
『心と道具』ということなんだな」と自分で思い返したんですね。
それでは、私とどこが違うかというと、主催者側の作った文書では、私のところにこう
書いてある。「火がつかないライターは欠陥道具とする時代、だがワンタッチで火がつい
たら、人にとって完璧な道具」。その発想だと、完璧な道具/不完全な道具というふうに
、つまり、この道具はいい/この道具は悪いというふうになるんですね。私の場合にはー
ーここが一番違う所なのだけどーー完全な道具云々ではなくて、道具をどう使うか、自分
に合った道具をいかに自分で作って使うか、道具はそういうものだと思っています。古道
具屋さんにある道具などというのは、今や「お宝」などと呼んで流行っていますけれど、
誰かが使った後の残骸ですよね。どう使われたかわからない道具がたくさんある。私は道
具自体には目がいかず、いつもその使い方に焦点がいく、そこが違うんですね。
ただ先程も言ったように、「こころと道具」という言い方も悪くないな、と思ってね。
それでそのままのタイトルで文章(当日配布のレジュメで、このホームページの「エッセ
イ1」がそれ)をまとめてみたわけです。ここへ来る前にこれを読み返してみたら、大体
読むのに8〜9分かかるんですね。各パネリストには15分与えられているから、もうち
ょっと余計な話をしてもいいかなと思っています。
実は私は、夫婦で老人ホームにいます。「老人ホーム」というと、一緒にいる連中から
「みじめなことを言うな」と怒られちゃうのだけど、住人の平均年齢は70代後半で60
人位で住んでいます。なぜ老人ホームという名称を嫌う人がいるかというと、一般的にイ
メージが良くないのだそうです。いわゆる「ケア付き」、つまり半病人を介護者が助ける
ような所ではないかと思われるのがイヤだからなんです。要するに三食、温泉付きの所で
、身体的自立の老人が入居条件です。身体の具合が悪くなったり障害が起きたりすると、
ケア付きの別の施設の方に移されたりするんです。私たちの場合には、私は丈夫なのです
が、家内が糖尿病を患っていて料理をしたり洗濯をしたりするのがもう苦痛になってきた
ので、三食付きならいいや、ということでそこに入ったわけです。
ホームでは食堂でもって皆で食事をとるのですが、たまたま私の前に80歳位のものす
ごく健康なご婦人がいらして、彼女が言うには「岩城さん、こういう所にいると、バカに
なっちゃうわね」と。もしホームでなければ、料理したり洗濯したりいろいろなことを考
えます。冷蔵庫の中のものに何を買い足して、どう調理しようかとか。ところが、ここで
は何も考えなくても三食が出てきちゃう。洗濯を自分でする人もいるけど、毎週、洗濯屋
さんが取りに来てくれるんですよ。だから便利といえば便利なのだけれど、そのご婦人は
、ついこの間出て行きました。「こんな所にいるとバカになっちゃうから」と言って。ご
自分でやった方がよっぽどいい、ということなのですね。
本題に移りますが「簡単」とか「便利」とか「誰でも扱える」ーーそれが今の風潮にな
っている。そして何でも「効率」。企業でも何でも皆そうなっていますね。それから「I
T化」。要するに分業化なのでしょうが、今や「簡単」「便利」「効率」というのが賛美
されている。留まるところを知らず、という感じですね。そういう中で生きていくと、先
程のご婦人じゃないけど「バカになっちゃうわよねぇ」と、まさにそうなるわけです。老
人でもないのに足腰が弱る人が出てきたり頭が弱る人が出てきたり。じゃあ、頭が弱った
のでクイズでもやって鍛えよう、と。ところが、そのクイズというのがまた、どうやった
ら頭が鍛えられるかとういソフトを売っているわけでしょう。どうしたら鍛えられるか、
という考え方自体を今度はモノではなく、コトとして売っているわけです。足腰が弱った
ら大腰筋を鍛える体操とか。その通りにやると衰えを防ぐことができるとか。全てモノや
コトの完成品として売っているわけです。その話を先程、石毛さんがいろいろな形で言わ
れていたけれども、全くそういう世の中になっている。
私は何とかそれと闘おう、ということを開始したわけです。それはセルフメイド運動と
いうことなのですが、要するに自分で物を作る。道具をつくる。全部はもちろんできない
ーー分業の世界ですからーー、できないけれども、ある範囲内では自分で材料を集めてき
て物を作る。自分で物を作るということは大変総合的で、今までの知識や経験を総動員す
る。例えば料理でいえば、熱を加えていればジューって音が聞こえるし、匂いもしてくる
から「あ、このあたりだ」というところでパッとやる。卵焼きなどはまさにそうですね。
そのタイミングがすごく重要です。特に、熱を使ったり、時間とともに進行していく物作
りというのは、頭にも身体にもすごくいいのです。セルフメイド運動をやればバカになら
なくて済むよ、という話です。
ただ、それだけだと消極的なんですね。人間の行動というのは、実は目的を達成する途
中経過も楽しんでいるのでね。例えば、縄文時代の人は魚を食べたい時にはシカの角を削
って釣り針をつくる。釣り糸は、苧(からむし)の繊維を両手で左右に延ばしておいて捩じって
から二つ折にすると、それが勝手にくるくる捩じれて撚り糸ができちゃうんですね。錘は
土器のかけらを使う。そうすると、私の教え子が川で試したのですが、餌なしでも魚が釣
れるんだそうです。魚というのは何か白っぽいものがチョロチョロ動くだけでパクッと食
いつく。水と一緒に口に飲み込んでエラから水だけ吐き出す。そのように餌なしで釣りが
できる。そういう論文を彼は書きました。その途中経過がですね、釣り針を作るのも面白
いし、土器のかけらをリサイクルして錘に使うとか、糸を撚って作るとか、そして実際に
魚を釣るまで、みな面白い。その獲物をどう調理しようとか考えるのも楽しいーー。
山の上から景色を見ると素晴らしいからといって、いきなりヘリコプターで山の頂上に
行ってもね。そりゃ、いい景色は見られますよ。けれども、それよりは、下から足で登っ
て行く、その途中経過がそれなりに面白い。そして最後に山の頂上について、やぁ、いい
景色だと。身体はくたびれるのだけど、途中経過を楽しみ、最後の本当にいいところの景
色を楽しむ。
以前、科学史や技術史を多少やっていた時に、産業革命に関する児童書を書いたことが
あります。産業革命はイギリスから起こったと言われていますが、ハーグリーヴズという
人がスピンニング・ジェニーと言われる糸紡ぎ機を発明するんですね。すると、今まで手
作業で糸を紡いでいた職人たちがそのスピンニング・ジェニーをぶち壊す。暴動のような
事態が起きるんです。少し後の時代でも、蒸気機関が発明されてあちこちで蒸気船をつく
ろうとした時に、手漕ぎの船頭達がやはりぶち壊そうとする。例えば蒸気エンジンに砂を
入れたりね。それで蒸気機関が動かなくなってーー。
実用蒸気船の発明者と言われているアメリカのロバート・フルトンなどは凄い人でね。
腕っ節の強い警備員や監視人を配置して妨害されないようにしながら船をつくり、船を実
際に走らせる時には大宣伝をしてからやりました。ハドソン川で大々的な、今でいう大イ
ベントをやったんです。そういう人が発明者ということになるんですね。それ以前にもヨ
ーロッパで蒸気船をつくろうとした人は幾人もいましたが、みんな船頭達に妨害されて発
明者にはなれなかったんです。蒸気機関車の発明の時も妨害がありましたしね。
そうした妨害をしたのは職が無くなるからだ、と一般の技術史の本には書かれています
が、私は自分が物作り人間だから、そういう見方に対して「そうかなぁ?」と思っていま
した。自分で一所懸命仕事に慣れ熟練した糸紡ぎの腕を無視されてしまう。それに代わっ
て機械で一斉に大量の安価な糸が作られてしまうのです。職を失うつらさよりも、むしろ
熟練工としての誇り、自尊心を傷つけられた方に腹を立てて、それで暴動が起きたのでは
ないか。私はそう思ったので、私の書いた児童書にはそのように説明しました。
そころが面白いのはスポーツの世界では道具の改良はあまり見られないですね。サッカ
ーボールをどう改良したらーーなどという話は出ないですよね。むしろボールの蹴り方と
か、つねにボールを扱う個人技が問題になります。道具がいいか悪いかという前に腕前が
なくてはどうにもなりません。スポーツでは常に道具の使い方が問題になってくるんです
ね。
レジュメにも書きましたが、剣術を例にとれば、日本刀というのは800年ないし千年
くらい形が変わっていないんです。形を改良していい道具を作るという発想ではなく、道
具はそのままでその使い方を考えたり訓練したりする。しかも個人技としてね。だからこ
そ、自己主張も、自己実現もできるのですね。
ところが機械化がどんどん進むと、例えば鉄砲ができれば、武士が自分の力を主張でき
る場がなくなってしまいます。一方で、戦いがあろうと無かろうと平和な時代になっても
剣術というのは刀をいかに使うかというその修練が面白いわけですね。だから剣道が今で
も残っているんだと思うんです。他のスポーツをとっても、道具を改良するのではなく、
使う腕を磨くことが重要なのは当たり前になっています。
でも、スポーツ以外の世界では、結果をすぐ求める。火をつけるというとマッチの方が
早い、ライターはもっと早い。そりゃ早いことは早い。けれど、私が摩擦で火を起こして
いるのは、その途中経過が面白いからなんです。まず、材料を集めてきて発火具を作る。
その発火具を作るのも面白いし、つぎにどうやって摩擦したら火が起きるだろうと考え、
いろいろやってみるのも面白い。そして摩擦で火種を作り出してから、それをパッと炎に
できた時は、ちょうど山登りで頂上にたどりついた時と同じように非常に楽しいわけです
ね。それがマッチやライターの発明のおかげで古代発火法が廃れて消滅してしまったのは
何とももったいないなぁ、という感じです。
手仕事とか手の技術っていうのは、その途中経過が面白いから職人さんがやっているの
であってね、それが機械化で全部失われてしまうとなるとーー。だから、私はセルフメイ
ド運動というのを始めたんです。バカにならないためではなく、面白いからです。セルフ
メイドを自分の生活の中に少しずつでもいいから拡大していこうよ、と。そういうことを
言いたい、となると、やっぱり「こころと道具」というタイトルもいいのかなぁってね。
そういうふうに思った次第です。