エッセイ
私の学問研究法
                              岩 城 正 夫

                 0.はじめに

 今回の話題提供は私という人間の生き方の総括でもあると考えています。実は私はもと もとは研究者ではなく大学を卒業してから様々な職業を経た後、40歳過ぎてから初めて大 学に就職し、そこで初めて学問研究者という職業につき、その職で給料ももらうことにな りました。それ以降約30年間その職業を続けてきたわけですが、今回大学を定年で退職す るにあたり、職業としての学者をやめることになるわけで、ついでに業務内容としての論 文執筆活動からも引退したいと思いました。それが私の人間の生き方そのものなのだとい うことをここでお話しさせていただきたいと思います。
 普通の常識では、学問研究は年齢には関係ないと思われています。そのこと自体につい ては私も否定しません。それなら大学を定年退職しても学問研究や論文執筆活動まで止め る必要などないではないかと思われるでしょう。ことに体力・気力がまだ健全なのだとし たら、よけい引退などする理由はないと思われるでしょう。でも私のばあい、そこが面白 いところなのです。
 それなら今なぜ引退しようというのか、その説明をしたいと思います。それは私の学問 研究法そのものに関連しているし、また今後の人生設計でもあるからです。がしかし、そ の説明をするためにはその前に私がなぜ学問をやるようになったのかという時点から話を しなければならないと思いますので、しばらく御辛抱ください。
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 振り返ってみますと、私が学問を学び始める動機は、二つの方向からそれぞれ独立した 形で生じたように思います。一つは16〜17歳頃から始まったもので人間像や世界像を理解 するための勉強であり、いわば哲学的なものといえそうです。もう一つはたぶん17〜18才 くらいからのもので自分の希望する職業に関係した理科系の学問を学ぼうとするものだっ たと思うのです。

           1.第一の動機・自分の人生観を求めて

 第一の動機は、自分はどう生きるべきかを知りたかったからで、自分とはいったい何者 なのか、なぜ生まれてきたのか、何をしたらいいのか、などなどの疑問についての答が欲 しかったからです。そうした疑問は今日でも多くの子どもが自然に抱くものだし、それは 小学生にも中学生にも高校生にもいると思います。それと同じです。
 ただ私のばあい、最初から学問そのものに近づいたわけではありません。最初は宗教で した。旧制中学の4年生ころ( 16〜17歳 )から自分とは何か、どう生きるべきかなど考え るようになり、友人たちと議論を始めたのですが、まずは身近にあった宗教団体の中に入 ってゆき、宗教講話のようなものを熱心に聞いたり質問したり議論を吹っ掛けたりしまし た。それは私の家庭環境のせいもありましたが、当時の社会状況にもよりました。そのこ ろは第二次大戦で日本が敗けた直後で、世間一般でも思想的には大きな乱れがあり、価値 観の大転換期でもありました。さまざまな思想が入り乱れていたので、若者はさまざまな 傾向の思想に出会ったことになります。私はやがて宗教講話ではもの足りなくなり、友人 などと議論しつつ、しだいに心理学や精神分析などの本を読むようになり、ときに『血液 型と民族性』といった当時としては珍しい専門書なども見るようになりました。また、同 時に、易学・手相・人相・骨相・姓名判断などの本もいろいろ漁っては読みました。さら に占い師や手相観や人相観に金銭を支払って実際に見てもらったりした体験も何回かあり ます。そのあたりの私の行動様式はいまの若者たちと大差はないようにも思えます。
 そうした行動は後になってから思えば自分で納得できる人生観や世界像を持ちたいと思 う若者の欲求のあらわれだったでしょう。18歳ころになると、哲学・歴史・科学史などの 本を熱心に読むようになり、宗教からはしだいに離れていきました。宗教特有の何か絶対 的なものを信ずるというやり方は自分には合ってなく、確かな証拠をもとに合理的に考え をすすめる方式に魅力を感じたということでしょう。ただ、20歳ころを思い返してみると 易学や心霊現象・超心理学など(最近でいうとオカルト的なもの)への関心はまだまだ強 く、それを捨てることなどとうてい考えられなかったと思います。ただ私のばあい、神秘 的なことが好きだったというよりは、心霊術とか超心理学などで言われている不思議な現 象は、もしそれが本当にあるのなら実に興味深いと思うし、またその可能性もあるような 気もするし、物理現象の一つとして、いずれは実験的にも証明されるのではないかと本気 で期待し続けていたのです。

             2.理科教師志望と第二の動機

 さて第一の動機とは全く別の面から第二の動機は生まれます。私が17〜18歳( 旧制中学 の5年)になったころ、自分の進路を考えねばならなくなり、自分がやれそうな職業とし て教師を目指すようになります。というのは、自分の学校体験では教え方の下手な先生に 出会って迷惑したというか苦しんだという記憶が強く、自分だったらもっとずっとましな 教え方ができるはずだという思いこみがあったのではないかと思います。人に物事を教え るということにある種の自信があったのかもしれません。ふつうよくある話のように、素 晴らしい教師に出会ったことで教師を志望するようになったという例とは違うようです。 むしろその逆ですね。では何を教える教師になりたかったかといえば、自分の好きな理科 とくに物理を教える教師です。その結果、旧制高等師範学校理科2部物理学科を受験する ことになります。
 でも子どもの頃から理科が好きだったわけではありません。私の場合たしか小学5年生 から理科という科目が加わったと思いますが、どちらかというと嫌な勉強だなと思ってい ました。少なくとも小学校の時は好きではなかった科目です。中学に入ってからたぶん16 〜17才の頃には理科が好きになっていたと思います。特に物理が好きになっていました。 その理由を考えてみると自分の育ち方が関係していると思います。
 私は子どもの頃(小学校低学年)から物を作るのは大好きでした。ものを作るのが楽し かったのです。小学生低学年の頃には粘土細工が好きでした。また公園にいって土を掘っ たり積み上げたりして楽しみました。小学4年生ころには風車、水車、凧、竹トンボ、グ ライダー、パチンコ(ゴム動力)、弓矢などを作っていたと思います。それらは学校の授 業とは全く無関係で、もちろん理科とも無関係であったと思います。5年生ころには家の 柱時計を分解してひと騒ぎになりました。また天体望遠鏡を強くねだって買ってもらうと 、買ってすぐにばらばらに分解して家族を不安がらせたりもしました。再び元のように組 み立て直したので家族から信用は得ましたが、じつはそれ以前から古雑誌『子供の科学』 を古書店から10銭くらいで購入し、その記事を見ていたので結構雑多な知識をもってい ました。そうした記事の中に望遠鏡の構造の説明もあり、よく知っていたのです。そして 多分6年生のときやはり『子供の科学』の記事を見て缶詰のあき缶から切り取ったブリキ 板を鉄心に電気モーターの自作に成功します。ただし電圧に関する知識が不完全だったの で、家庭用の電源に直接つないでしまったため、せっかく作ったモーターはものすごい勢 いで回転したもののコイルが数秒で焼け焦げてしまい、また家のヒューズも飛んでしまい ました。しかし家族は誰も叱りませんでした。それに気をよくして、物作りはさらにすす みます。
 その頃から電気じかけの模型作り傾向に拍車がかかり、あき缶から切り取ったブリキ板 を重ねて鉄心を作り、それにコイルを巻いて電圧降下用電源トランスを自作し、次いで動 力としてのモーターを製作し、それを搭載した電気機関車(車体は木と厚紙製)やレール (当時は金属が不足していたため模型飛行機用のヒノキ材を何本もつなげて作った)も作 ったりしました。電流は左右の木製レールの中間に敷設された裸銅線を集電子で撫ぜるよ うにしたものと、他方、レールの真上には本物のように裸銅線の架線を設置して、それを 電車の屋根上のパンタグラフ(これも自作)で集電するようにしました。
 それ以降、家の中にあった古い電気器具を分解したり、金属加工用の工具など、それら を自由に使用し、家の中の一部屋(6畳)を完全に専有して、部屋いっぱい散らかしなが ら真夜中でも工作に耽っていました。中学に入ったころには音響問題にも関心を広げ、コ ーンの長さ1mほどの聴音機(集音装置)を作ったこともあります。その他、模型グライ ダー・模型飛行機・蒸気タービン・鉱石ラジオ・真空管ラジオなどを作って楽しんでいた と思います。またそのころ或る種のラジオ用真空管を転用して光電管として使えないかと 思い、さまざまな実験を繰り返しましたが失敗ばかり重ねていました。また電磁銃を試作 し、弾丸は一応は飛んだものの思うように性能は向上しませんでした。さらに新聞記事で 見た「錆鉄ラジオ」を何度も作ろうとしては失敗を重ね続けました。そうした工作は学校 の授業とは無関係で、私がいつも参考にしていたのはかの古雑誌の『子供の科学』でした 。またそれと並行して科学博物館や交通博物館によく出かけていきました。両博物館とも 自宅から徒歩で行けました。そうした行為は昭和16年ころから昭和20年3月10日の東京大 空襲で家が焼けるまで続きました。
空襲で家が焼かれ埼玉県浦和市郊外に移ってからは近所の農家のラジオ修理などをしな がら、他方、短波ラジオを作って「アメリカの声」を聞いていました。1945年の春〜夏頃 、アメリカ軍機から大量の宣伝ビラがまかれ、それには短波の周波数が書かれていたので 、そのビラに大いに刺激され、噂に聞く憲兵の取り締まりなるものも気にせず、というよ りその意味がよく理解できなかったこともあって、数種の短波ラジオを試作しては聞いて いたのです。
 思い返してみると当時、生物や天文などに対する興味も少なからずありましたが、より 強い関心事は主として物理学的・工学的方面に集中していたようです。そうしたことから 学校の理科(物理)も好きになり、電気・磁気・熱・光・音・材料力学・静力学・動力学 などに向かい、けっきょく物理を学んで理科教師になる方向へと向かったのでしょう。

              3.社会への関心と政治活動

 物理学が好きだとはいっても、それは一通り物理を学んだあとは中学の理科教師になっ て生徒に教えるという道に入りたかったわけで、自分が物理学という学問を研究しようと いう気持ちは全くありませんでした。教師は学者の研究した結果を教えてもらって、それ を生徒たちに伝えるために先ず教師自身が理解・吸収するものだという考えでした。
 そうした意味で、私にとって物理学とはその知識を理解し覚えるためのもので、高等師 範とはそのことをひたすら実行するための学校だったのです。すくなくともそのはずでし た。ところが高師入学後かなりショックを受ける事態に直面しました。というのは、新入 生は上級生から政治演説というよりアジテーション演説を繰り返し聞かされたからです。 それは学生自治会の活動のようでした。そういう経験はそれまで皆無だったので、その驚 きは大変なものでした。
 それがきっかけで、それまで私の中にほとんど欠落していた社会科学方面の勉強が始ま りました。この勉強は、私の学問への第一の動機に関係する勉強だと思います。それは人 間の生き方にかかわるテーマだからです。その1948年、当時は中国大陸において中国共産 党が破竹の勢いで勢力を拡大しており、中国社会主義革命が進行中なのでした。日本国内 においても労働組合や左翼政党の活動は活発で、また高師や文理科大学の学生自治会活動 も活性を極めていたようです。ほとんどの学生は社会科学や政治思想とくにコミュニズム に関心をもったと言えます。
 たぶんそうした新しい体験の影響だろうと思うのですが、あくる1949年に発足した新制 大学への進路を選ぶにあたり、私は理学部物理学科への道は止めて、教育学部の教育学・ 心理学コースを受験したのです。ほとんどの友人たちは在学中の旧制高師理科をそのまま 継続するか、新しく出来た理学部物理学科を受験しました。しかし私だけは文系に方向転 換しました。ということは、第二の学問への動機から始まった理科教師という職業に必要 な物理学の勉強を中断してしまったことになります。そして明確な見通しの無いまま第一 の動機である人間の生き方に関わる勉強と、大学での自分の所属学科とを一致させたとい うことになります。
 新制大学に入学後、教育学や心理学の勉強と並行して社会科学分野全般への勉強も一気 に促進されました。それでも大学1年生の間は必修とされた全ての講義に出席し、単位も 修得しました。が、1年生の後半頃から民科(民主主義科学者協会)本部(神田駿河台) の心理部会・言語部会などに毎週出席し始めました。また自治会活動を主とする学生運動 にも加わるようになりました。大学2年生以降になると毎日大学には通うものの講義には 全く出ず、もっぱら自治会活動・学生運動に精力をついやし、夜間は民科本部に通いまし た。そのころから経済学や唯物論哲学や政治活動文献を大量に読み漁るようになりました 。3年生ころになると民科にすら出席しなくなり、昼も夜も大学内や大学周辺地域の政治 活動にほとんどの時間を費やすようになります。そうして大学2〜4年生前半までは毎日 大学構内に通ってはいたものの講義とは無縁でした。
 ところが大学4年生のとき、大学内で草苅アルバイト事件という或る種の政治的事件が 起こり、学生の一部と大学当局とが激しく対立しました。それが理由となって私は大学当 局から無期停学処分を言い渡されました。自分ではこれでフンギリがついたと思い、いっ そ生涯を政治活動で過ごそうかと思ったほどでした。つまりこの時点で自分の職業を政治 活動にしようと思ったわけです。

               4.政治活動からの撤退

 しかしその決心はあとから思い返すとかなり精神的に無理をしていたと反省させらるも のでした。大学当局からの無期停学処分は母親を悲しませ、家族を悲しませ、大学の担任 教師と親との相互連絡などあって、担任教師から復学を懇願されたのでした。私もこのあ たりが潮時かもしれないと思い、とにかく「折れる」ことにし、大学に復学しました。
 それは一種の政治的転向かもしれないと思いました。しかし時間が過ぎてゆくうち、し だいに冷静さを取り戻し、自分が政治活動などで生涯をついやすなど、体力からしても、 精神構造からしても、かなり無理だと思えるようになりました。それよりは、もっと自分 に合った生き方があるように思えました。理科教師がそれであるかどうかは自分でも自信 があったわけではないのですが他に進むべき道は思いあたらないし、ともかくもう一度、 旧制高師の頃に気持ちを戻して理科教師への道に再出発してみようと思いました。
 このようにして学問への二つの動機は再び復活し、一つは自分の生き方に関わる勉強を 続けるとともに、他方では、理科教師に必要な理科の勉強、とくに物理学の勉強というよ うに、元にもどったわけです。
 大学に復学したのが夏でしたから大学4年生の残りの期間と更に大学5年目の1年間を もかけて、もう一度理科教師の資格を取得する方向に力を傾けました。自分の所属学科が 文系に移っていたので理学部の専門科目を履修するのはかなり困難でしたが、やるより仕 方がなく、あらゆる手を使ってでもともかく実行に移しました。
 大量の単位を強引な手段で取得しつつ(これでは理科系の学問をやったとはいえないの ですが)、他方、学問への第一の動機に関わる勉強として、大学生時代に講義以外で学び 得たものの如何に大きかったかをつくづく自覚しました。とくに権力とはなにか、学問と 政治との関係、組織と個人の関係、集団行動の法則性などについて多くを体験的・理論的 に学びえたと思いました。この時点で、自分の人生哲学の基礎としては何よりも学問を据 えることこそが正しいという確信、易学や超心理学などはその基礎とはなりえないこと、 また宗教も自分にとってはその基礎とはなりえないことなど確信を得たといえましょう。 とはいえ自分の人生哲学の確立はまだまだかなり遠い将来のことに思えたのでした。

             5.再び理科教師を目指して

 さて、大学に復学した時期はすでに4年生の夏だったわけで、同時に卒論についても考 えねばならなかったのです。自分は理科教師になろうとしているのだから卒論は理科教育 でやることにし、文部省の新『学習指導要領・理科編』を取り上げました。ただ、この問 題に関したはすでに私は大学付属小学校の教師たちとの討論を数えきれないほ重ねており 、新学習指導要領の問題点についてはすでに多くを知っていました。しかし私の卒論では 或る試みを実行してみようと考えたのです。
 それは、その頃の私は自分の気持ちのなかに、或る種の文章に対する反感というか嫌悪 のようなものが芽生えていました。それは政治的アジテーション風な文章とか、或る考え 方を自信ありげに強調し、読み手に結論を押しつけるような文章に対してです。自分が指 導要領を理論的に批判するということになると、卒論の文章が下手をすると自分がいま嫌 悪している風な文章になってしまうのではないかと恐れました。そのため、そうした批判 方式はいっさい避け、他人に語らせる方式、つまり実際の教育関係者の言葉を集めること によって、そこからひとりでに指導要領の問題点が浮き出てくるように工夫することを試 みようとしました。
 すなわち、教育現場において学習指導要領の方針がなかなか受け入れらない現状に対す る文部省関係者や教育委員会など教育指導者たちの嘆きの声を集めてみること。
 また、実情に合っていないと嘆いている現場教師の声、如何に現場教師が新学習指導要 領のために悩み苦しんでいるかの具体例等を探してみること。
 そうした声を、多くの理科教育雑誌や新しく出版された著作などを調べて拾い出すこと にしたのです。どれくらい集まるかちょっと不安もありましたが、実際、調べてみるとか なりの具体例がみつかりました。特に指導要領を作った人達や解説をしている人達、すな わち賛成の側の人達自身の悩みの声は興味深いものでした。皆が皆このように困りはてて いるという状況を人々の声を引用することによって描き出すことができました。それらの 引用によって、とどのつまりは現行指導要領に多大の弱点・問題点がある証拠ではないの かという論法で卒論を仕上げたのです。
 ということは指導要領を直接理論的に批判したわけでもなく、またそれに対して別の教 育プランを対置させたわけでもありません。ただ、現行指導要領にはほっておけない深刻 な問題があるということを多くの証言をあげて示そうとしただけです。
 その卒論は、言葉こそつたなかったとは思うのですが、当時の私としてはそれ以上のこ とはやれないと思いました。そして当時は「やったぁ!」と思ったのです。しかし、その 卒論への教授の評価は極めて低いものでした。私としてはまことに面白くなかったことは たしかです。だから卒論発表会のとき、私は「この私の卒論には外国文献が一つも引用さ れていないがゆえに卒論としての評価は低いなどと語った担当教授に対しては、ただただ あきれるばかりである。この卒論になぜ外国の文献が入らなければならないのか全く不可 解だと思います。この大学にはそんなくだらぬ教授もいるようですな。」と当の教授の顔 を睨みながら言ってのけたほどです。そのとき、当の教授は「そう言われれば確かにそう かもしれない。君の卒論、あとで読み直します」と述べました。それだけ言わせたのだか らと一応それで納得することにしました。
 この卒論は理科教師という職業に深く関わるテーマで、学問への私の第二の動機と関わ りがありそうですが、実際には第一の動機に関係した勉強の方が大いに役立ちました。
 他方、大量の単位履修の面では、とくに理学部の専門科目ではかなりの困難がありまし たが、ともかく必要最低限だけ履修しました。なんとか理科教師の免許状は取得できたわ けです。大学5年目の1年間で履修した単位数は80単位以上に及びました。理科教師の資 格取得の態度としてはかなり問題でしたが背に腹は替えられないという思いでした。そし て何とか東京都の教員試験も突破し、中学の理科教師となることができたました。

             6.教育現場の面白さと多忙さ

 中学教員になって先ず感じたことは、理科の授業は想像していたよりもはるかに面白い ということでした。中学生を相手にすることがそれほど感動的なものとは思わなかったの です。また日々の生活も面白いものでした。やはり自分は教師に向いているかもしれない なと思ったものです。日々の授業のやり方や理科実験の方法などにおいて、さまざまなア イデアが次々と思い浮かびました。私が就職した中学は新設校で、校舎こそ新築だったの ですが理科の実験設備は何もありませんでした。そこがまた面白かったのです。当時、理 科教育振興法が出来たころで実験設備・備品を備えつつあった時期ですが、私は実験器具 を自前で次々と作ってゆき、それがまた楽しいのでした。生徒も喜びました。思い浮かぶ まま、それを授業に取り入れるのですが、アイデアは必ずしも予想どおりの効果をあげる とはかぎりません。しかし改良すればきっと良い結果がでるに違いないと思われることも 多かったのです。
 でも、それらをじっくり考えている時間的余裕というものが全くといってよいほど無い ことが痛感されました。つまり中学教師にはさまざまな雑用が多すぎるのです。だから如 何にアイデアが沸いてきても、それを洗練されたものにまでに仕上げるにはあまりに時間 不足であり、いつも中途半端なまま次々と先へ進んでしまうということが気になりました 。それはまことに残念であるばかりでなくストレスとなりました。そんな状態が続くこと にイライラしました。そのことを文章にして書き残そうとしても雑用に追われて記録する 時間がとれない、それがくやしいのだがどうにもならないのでした。そのままこの状況が 続くことで凄いストレスが溜まり、このままでは自分が消耗しつづけながらただ年齢を重 ねてゆくことになってしまうのではないかという不安感に襲われるようになりました。
 また、私は教室でも職員室でも言いたいことを平気で喋ってしまうので、いろいろと批 判の対象にされました。そうした問題もあって、中学教師には向いてないらしいという気 持ちが増大し結局1年半で退職することになってしまいました。
 ずっと後になって私が大学教師になってからのことですが或る研究会で若い教師から、 本の執筆の相談を受けた時、中学校教師のままでは困難ではないかと感想を言ったところ 、彼は顔をこわばらせて黙ってしまいました。そのとき私の言った意味は雑用の多いなか で著書の執筆は難しいのではないかという私自身の体験を語ったつもりでしたが、どうや ら彼は別の意味に誤解したようです。そのときもっと説明すればよかったのでしょうが、 私にすれば小学校も中学も大学も教師としては対等だと思っていましたし、問題は自由時 間をどれだけ持っているかの違いだけだという強い信念がありました。まさか別の意味に とられるなどとは思ってもいませんでした。私自身、大学教師になってからは毎年のよう に著書や論文を出すことができたのはただ自由時間があったからで、決して能力の問題だ けではないと今でも思っています。

              7.玉木研究室での生活

 中学校教員を退職してあれこれ自分の今後を考えていたとき、相談にのってくれた旧友 の板倉聖宣氏のすすめで、東大教養学部の玉木英彦研究室でしばらく物理教育の研究をす ることになりました。ちょうどそのとき玉木研究室には東北大を卒業して入ってきた大学 院生で物理教育を専門に修士論文を書こうとしていた上川君が在籍していました。玉木さ んは教養学部の中では物理教育にもっともくわしい人でしたが、とくに自信があったわけ ではなかったのかもしれません。私が理科教育の現場体験者でしかもそれを研究したいと いうことで大歓迎を受けました。玉木さんは私が上川君の相談相手になってくれればあり がたいということなのでした。
 が、私としては物理教育の研究もさることながら、板倉氏らとの認識論や社会科学・科 学史・政治問題など広い範囲のテーマについて繰り返しながらの討論に大きな喜びを感じ たのでした。板倉氏の紹介で科教協に入会したのもそのころですが、また、科学史学会の 学術誌『科学史研究』に、岩城・上川・板倉の連名による理科教育と科学史に関する論文 を共同執筆したのもその頃です。上川君の学位論文はその内容にそって書かれました。
 また私は中学教員体験をもとにした「浮力問答」という私の最初の論文を書き、それが 『科学と方法』に載りました。その雑誌は板倉氏の主催する「東大自然弁証法研究会」= 通称「自弁研(しべんけん) 」の機関誌です。この期間で学んだことは多く、認識論や社会科学 の基礎を学問的に学びえたのと同時に、研究組織の在り方や学術研究雑誌の発行に関わる 諸問題、そしてその読者との関係なども体験的に学びえたといえます。したがって、この 期間には、学問に近づく二つの動機のどちらの面についても大いに勉強になったと言える と思います。
 同じ頃、大日本図書の教科書部門で、教科書の補助教材として理科スライド体系を企画 していました。適任者を誰か紹介してほしいという依頼が玉木教授に来たとき、私が推薦 されて行くことになりました。それは毎週会議があり、まず教材全体の企画から始まって 、個々の教材のシナリオ作成から撮影の立ち会いなどが仕事で、それは物理教材内容の分 析・子どもの認識過程についての検討など、かなりの勉強になったと思います。
 その理科スライド教材作成委員会の生物分野担当者が国立教育研究所の主任研究官・小 島氏で、その彼から私に国研の物理教育担当者の席が空いているので来てほしいとの要請 がありました。私は物理教育には決して自信がなかったわけではないのですが、何しろ理 学部の出身ではない自分が大いに気になりました。国研の人達は私の履歴書をみたらびっ くりしてしまうのではないか、そんな私が国立教育機関の物理担当研究官となるにはあま りに経歴上問題だと感じたのです。これは最初から遠慮しておく方が無難だと思われまし た。そこで私の代わりに板倉聖宣氏(当時オーバードクター)を推薦したところ、無事に 彼はその席につくことができたのでした。私自身は相変わらず無職のままでした。しかし 大日本図書では『科学教育ニュース』という科学教育雑誌を創刊してまもない頃で、私は その常任顧問のような役も引き受けたので、スライド委員会の報酬と併せると結構な収入 にはなりました。

            8.理科教育雑誌の編集者となる

 ほぼ同じころ、科教協(科学教育研究協議会)の活動はかなり活発となり、組織的にも 拡大しつつありました。それまで科教協の機関紙はタイプ印刷でしたが、このあたりでい よいよ活版の月刊教育雑誌を創刊すべしとの声が高まりつつありました。そのための常任 編集者を探すことになりました。私はそのころはアルバイトだけで本務がなかったことも あり、多少の紆余曲折は経ましたが、最終的に田中実氏や真船和夫氏の要請を受け、科教 協の理科教育雑誌の創刊にかかわり、その初代編集者となりました。それが月刊『理科教 室』です。刊行は順調にすすみ、読者も右肩上がりに増大していきました。月刊雑誌の編 集というのは極めて刺激的で、また極めて面白い仕事でした。あっという間に1カ月が経 ってしまいます。最後の校正が終わって1日か2日ほっとしますが、すぐまた目の回るよ うな忙しさになります。そして気がつくとまた1カ月経ってしまっているのです。そうし ているうち、たちまち1年が経過してしまいました。しかし、こんなことで良いのだろう かと自問せざるをえないことになりました。これでは自分自身でゆっくり考える時間がと れない。もちろん、自分の原稿を書く時間も取れません。しだいに自分が消耗してゆきな がら、このまま年を取ってゆくのではないかという不安にかかれました。
 退職したいと申し出たのですが役員全員から大反対を受けました。そこで作戦を練り直 し、雑誌編集者になりたいという希望をもつ福永君という若者がいたので、彼を3カ月ほ ど猛特訓して私の代わりに編集実務についてもらい、大丈夫であることをみとどけてから 実質的交代はすでに済んでいるという既成事実を発表し、私は『理科教室』編集部を退職 しました。この在任中には理科教育の問題のみならず広く教育問題一般の様々な問題を学 ぶことができたように思います。同時に、さまざまな著名人に会える機会があり、大いに 勉強になりました。また結果として、多忙な著名人にどのようにしたら会えるかのノウハ ウや、原稿を依頼するノウハウ、また依頼原稿をどうしたら入手できるかなど、さまざま なノウハウを体得できたように思います。また当時の教育雑誌には広告というものがなく 、全てウメクサで解決していました。私は多量のウメクサを短時間にまとめたりする技能 も苦しみの連続ではありましたが結果的に身についてしまったともいえます。

            9.科学史学会の専任職員として

 『理科教室』を退職したあと、ふたたび板倉氏や玉木教授のいる東大教養学部に通うこ とになりました。そのころ、板倉氏ら若手の科学史研究者は学会の民主化運動を進めてい ました。ほどなくして、若手を中心とする学会の民主化運動が成功したという事情を板倉 氏から詳しく聞きました。学会役員の選挙規則は全面的に改正され、その結果、一挙に多 数の若手委員が登場することになりました。また、かつての唯研(唯物論研究会)のメン バーだった岡邦雄・今野武雄・三枝博音といった人達も復活役員となりました。新しい選 挙規則によって新会長となったのは三枝博音氏でした。同氏は学会事務局を大学内から市 中に出すことによって、年中行事のような学閥争いを多少でも減少させうるのではないか と考えたようで、新しい市中の事務所設置と、そこで働く新しい学会事務局専任職員を公 募することになりました。板倉氏らの薦めもあって私はそれに応募しました数名の応募者 がありましたが、私以外はみな科学史か技術史の専門研究者でした。私だけが科学史には 素人でした。結果として私が選ばれました。どうやら学会事務局の職員は事務能力さえあ ればよく、むしろ、科学史の専門家でない方が良いのではないかという判断が委員会では 働いたようです。素人なら如何なる学閥に組みすることもあろうはずがなかろうというこ とだったかもしれません。
 飯田橋の民間ビルの1室に新事務所は置かれ、私はそこを拠点として活動を開始しまし た。その時点から私は幅広くはあるが極めて浅い科学史の勉強を始めました。学問研究と しての科学史ではなく、周囲の事情を知るための勉強でした。
 ここでの主な仕事は、月1回ていどの役員会の準備と記録、2年に1度の役員選挙事務 、毎年の総会準備。恒常的な会費徴収。学術雑誌(年4回の和文誌と年1回の欧文誌)の 編集などでした。極端に忙しい時とそうでない時があり、平均すれば決して過労な仕事と は言えなかったと思います。ときに湯川秀樹さんのような超著名人と二人きりで話す機会 があったり、それは面白いばかりでなく、時にゾグゾクするようなスリルを感じることも 少なくなく、さまざまなことが学べる仕事場でした。
 もしかするとこの職は長く続くかもしれないと感じました。当時中山茂氏は私に「ファ ウンデイション・マンにぴったりだ」と言わしめたほどです。そういう学会とか財団とか にぴったりの専門家がアメリカにはけっこういるんだそうで、私はその類の人間だという のです。
 そこでの多くの研究者・大学教授たちとの日常的接触は、大学や学問というものをさま ざまな面から知る機会となりました。また日本学術会議のこと、同研連のこと、国際科学 史連合のことやその代表選出のノウハウ、その他の国際会議などついてもさまざまなこと を学ぶことができました。それらを知るにつれて、大学教授という職は社会的にはなかな かカッコ良く、時間的にも自由なようで、もし成れるものなら自分もちょっとなってみた いなと思いました。しかし同時に、自分にはとても無理だなとも思いました。それは自由 な面を持つと同時に他方ではまことに厳しい世界だという実感をえたからです。やはり私 はその脇にいてそういう人達に多少とも役立つ仕事をする方が自分には合っているような 気がしました。
 事務局には二つの学術誌(和文誌・欧文誌)への投稿原稿が常時送られてきます。先ず 原稿受理の手続きをしたあと、それらを論文審査に廻すわけですが、その回送事務をやり ながら、学術論文というものはなかなか面倒な手続きを必要とするものだと思いました。 審査を誰に依頼するかという問題、論文審査というものの在り方、その面倒臭さ、とくに プライオリティー(先取権)の争いは、表面のポーカー・フェイスとは裏腹に、陰では凄 まじい確執があり、そうしたことなどを見てしまうと、とても私のような性格では耐えら れそうもないと思いました。でも脇で見物しているのは、なかなかスリルがあって面白い と感じることも確かでした。
 ところが1963年、国鉄鶴見事故が起こり、不運にもそれに乗り合わせていた三枝会長は 事故死してしまったのです。街なかの学会事務所はまだ3年余しか経過しておらず、資金 的な背景もまだ安定には達していない状態でした。それを三枝会長による募金活動などの 努力で支えていたのですが、その事故により活動の中心を失い学会財政は徐々に窮迫し、 その結果、学会専任職員(つまり私)の維持は困難だとする結論が役員会で出されました 。飯田橋の民間ビルにあった事務所はまもなく閉鎖され、学会事務局は国立科学博物館に 移されることになりました。事務局移転が完了するとともに私はまたしても失業してしま いました。

            10.通信制高校の理科教師として

 そうした私の窮状を救ってくれようとしたのは科学史学会の人達でした。学会総務委員 だった今野武雄氏は私の履歴書をあちこちの人に手渡しながらきわめて好意的な口添えを してくれました。そのためもあってか、あちこちから就職口がかかってきました。ありが たいことでした。
 まず最初は中央大学の渡辺正雄教授からのもので、自分の助手にどうかというものでし た。かなり心が動いたのですが丁重にお断りしました。二つ目は東海大の辻哲夫教授から で非常勤講師(理科教育法)を2コマ担当してほしいというものでした。これは二つ返事 で引き受けました。理科教育なら私の専門だと自分でも思っていたからです。三つ目は上 智大学の中山秀太郎教授の紹介で昭和大学で科学史の専任教員を取りたがっているから履 歴書に論文リストを添えて送付してほしいというものでした。嬉しかったのですが、私に は科学史の論文が皆無だったので、事情をお話しして丁重にお断りしました。
 そして第四番目が東京工大の長谷川淳教授によるものでした。同氏の紹介で当時発足し たばかりだった科学技術振興財団に併設された工業高校の教員はどうかというものでした 。その高校は同じ財団に併設されたテレビ局・東京12チャンネルからテレビ授業を行なう 新型の通信制工業高校なのでした。すでに私は東海大の非常勤を決めており、毎週火曜日 は出勤できないが、それ以外の週5日の勤務形態でもよければ就職したいと希望したとこ ろ、その条件をのんでくれ、私はそこで物理の教師となりました。
 テレビで物理の授業を行なうのはなかなか興味深い仕事であったし、わずか3年間ほど のうちに、テレビならではの新しい試みがいろいろと実現されました。何しろかなりの予 算が実験準備に使えたので、ふつうの高校ではとてもやれないようなことがやれました。 かつて中学生のころさんざ苦労してどうしても成功できなかった光電管を作るのに成功し 、それをテレビで生放送(当時はほとんどが生放送)することもできました。その他、自 由落下運動や放物運動についてテレビ局の巨大スタジオを利用して高さ10mのクレーン の上から鉄の球を落下させ、それを真上からと真正面から、また放物運動のときは更に真 横からも、同時に3台のカメラで高速度撮影し、それを画面割りで同時にスロー・モーシ ョンで見せたりすることもやりました。また鉄無しモーターを作って見せたり、その他さ まざまな工夫をしたりして、まさに自分で楽しみながら放送することができました。

             11.技能者教育の新事業へ

 ところで科学技術振興財団は、いつまでも財界からの寄付だけを頼りにするわけにもゆ かず、自らの経営努力をしなければならなくなりました。財団に関連する三つの組織、東 京12チャンネルTV・科学技術館・通信制工業高校はそれぞれ経営努力を開始しました。 高校としては、通信高校とは別に、大企業内の主として若年技能労働者を対象に、労働技 術や技能向上のための技能教育組織(それは学校教育制度の枠から外れた、いわば各種学 校の範疇に属するものとして)の設置を企画しました。しかしそうした問題は労働省管轄 であるため、学校法人組織の中にあっては異質の仕事を実施する部門を置くことになるわ けです。なんと驚いたことに、その実質上の責任者として私が狙われ、財団理事から直接 交渉を受けたのです。ようやくテレビ利用の授業に馴染んだばかりなのに、また新しい事 業にかりだされることになってしまいました。教師から一転して新事業担当の課長となり 、九段の北之丸公園内にある科学技術館の6階に新事務所を構えました。そこでは新しい 構想のもとに、新教材の準備とともに、そこで働いてもらう新事務員の採用など忙しい毎 日を送ることになりました。
 ただ新事業は学校法人に所属しているのに、やることは労働省管轄の仕事なので労働省 関係の法規にそわねばならず、たいへん窮屈な活動を強いられました。私としてはそれを 根本的に解決しなければならないという思いがつのり、思い切って労働省管轄の職業訓練 法人として独立させることを企画したのです。しかし職業訓練法人というのは企業内職業 訓練所のように施設・設備を持つのが普通です。しかし私はその関連法規内容をよく検討 してみると訓練施設についての規定が何も無いことを発見し、その法規の穴をついて、事 務所だけのわれわれの団体にも認可してほしいと労働省に申請を提出したのです。労働省 の担当係官もさすがに驚いたようで、そんなことは誰も考えたこともなかったが言われて みると禁止事項は無いので、認可せざるをえないということで法人認可を受け、学校法人 から独立することができたのです。それによって、それまでの窮屈さから解放されたわけ です。
 ところがそのさなか東京12チャンネルで新しく「科学の歴史」という教養番組を作るこ ととなり、ついてはその担当責任者として私に兼務してほしいとの依頼が来ました。新事 業で忙しかったのですがきわめて興味深い企画だったのでともかく引き受けました。この 番組はテーマに合った科学史の専門家をゲストに呼んで私が若い女性アナウンサーといっ しょに鼎談の形で話を進めればいいというのです。しかしそれは後になってあまりに無謀 な仕事量だったとわかります。それは開始してからまもなく気付いたのですが、私はプロ デューサーのように全体を企画立案をしつつ、自分で台本を書き、それに見合うゲストを 見つけて出演交渉をし、自分自身も出演するということだからです。いくら面白いからと はいえ、これほどの多忙さはかつて経験したことが無かったと思います。充実した毎日で はあったけれど、ついに体力の限界に達してしまいました。録画は1月から開始しました がその年の8月中旬、先5週分ほどのビデオの溜め撮りを終え、夏休み休暇で箱根に行っ たものの、そこで動けなくなってしまいました。穿孔性胃潰瘍で急遽入院、胃の4分の3 を切除をする羽目になってしまったのです。入院中のベッドの中で撮りためておいた自分 のテレビ放送を見るしまつでした。

               12.女子栄養大学へ

 退院後も疲れを理由に財団に対し更に2カ月ほどの休暇をもらい、術後療養をかねて体 力の回復をはかっている最中、女子栄養大学の柴田義松氏から科学史の非常勤講師の依頼 がきたのでした。私は科学史が専門ではないし論文も無いので渋ったのですが、柴田氏の 上手な勧誘にのって引き受けることになってしまいました。私は当然のことのように週1 コマだろうと勝手にきめていて、その程度なら毎週火曜日の東海大学と同じ日に重ねれば 何とかなると思い込んでいました。ところが時間割り作成段階で改めて話を聞いてみると 、講義日は火曜日ではだめのようなのです。それまで毎週火曜日には東海大に行くため財 団には週5日しか勤務できないことが気になっているのに、更に他1日をさくというのは あまりに世間常識からはずれます。私はただちに財団を退職しました。
 しかしその1年後、柴田氏のお力で栄大の名義専任という、いま思うとなかなか面白い 制度によって、特別手当付の名目だけの助教授となり、さらに1年後、柴田氏のお力によ り正式の専任教員にしていただいたわけです。

       13.科学史の素人教師から原始技術史の専門家へ

 栄大への就職は言葉につくせないほど嬉しかったのですが、でも大学の専任教員となっ たとき、とうぜんのことながら学問研究をすることも義務となったわけです。矛盾してい るようですが、それは私がひそかに恐れていたことでした。私は科学史の専門家でもない のに科学史担当の教員となってしまったからです。まことに後ろめたいものでした。これ から科学史の論文をかかなければならないという現実は私にとって大変な圧迫感となりま した。諸先輩の論文はすでに科学史の学術誌編集に関わっていた当時つぶさに見てきたの ですが、どれも膨大な文献を読みこなしたものばかりです。ことに理学系統の科学史では イタリア・フランス・ドイツ・イギリス・アメリカ・ソビエトの文献に加えてラテン語・ ギリシャ語などの文献まで目を通したものも少なくないのです。そのようにして書かれた 日本人研究者の論文だけでも膨大な量になりますが、それら日本語の論文に目を通すだけ でも何年もかかるでしょう。それまでして科学史の論文をかかなければならないのかと思 っただけでうんざりしました。それがもし理科教育の論文ならばまだ何とか書けると思い ました。その方面なら学術論文を書ける程度にはなっていたと思います。でも科学史の論 文となるとまず膨大な時間を必要とするのは間違いないので、ほんとうに困ってしまいま した。
 大学教師のなかにも研究をほとんどやらないし論文も書かないという人もいないわけで はありません。しかし私にはそうするほどの度胸もありません。そこで科学史論文そのも のではないが何とか科学史につながるような何らかの研究活動をやる道を見つけなければ いけないのです。しかも厄介なのは、そういうことは人には相談しにくいものです。先輩 の小原秀雄さんが身近におられたのですが、あまりにみっともないことは相談できず、結 局一人で考える他なく、毎日のように真剣に考え悩み続けました。
 そうしてようやく探り当てたのが文献の存在しない時代の技術史を始めたらどうかとい うアイデアでした。文献が無いいじょうそれに代わる裏付け材料が必要になります。それ が原始時代の技術を復元しながら考えてゆくという手法です。
 しかしそこには重大な壁がありました。たしかにそれは新しい分野で、それまで人がほ とんど手をつけてないから珍しく人目を引くような面はあるでしょう。しかし、それが如 何に珍しく面白くても、学問として認めてもらえなければ仕方ないのです。どうすればそ れが学問として認めてもらえるか、その条件を考え、実施しなければならないという点で した。
 その準備や対策のため、かなりの期間にわたって没頭したといえるでしょう。そうして 、1年ほども過ぎたころでしょうか、しだいにイメージもかたまってゆき、新しい概念と して「原始技術史」という言葉を考えました。またそれを実験の面から支える「古代技術 復原実験」なる概念も考え、ついでにそれら概念にそれぞれの英訳を作り、念を入れつい でにその略称英語まで作り、一気に発表する機会をねらいました。
 1974年、エジンバラでの科学史国際会議が開かれるというので、それを発表の舞台に選 び、そこでそれらのキー概念を一気に発表しました。そのようにして、形の上では一応技 術史を専門とする研究者になったわけです。古代技術史のその前段階に位置づくとする原 始技術史を新分野として科学史学会での居場所を確保したといいますか、割り込んだわけ です。ただし内容をさらに充実させてゆくのはこれからです。以後数年間にわたって特に 古代発火技術の研究に集中しました。その結果一応の成果が出たので当初の目論見はどう やらうまく行ったように思われました。
 何冊かの著書を発表したことが影響したのでしょうか、幸いなことに若い賛同者があち こちにあらわれ始めました。
 ところが栄養大学は、当初教養部だけを置いていた埼玉県坂戸市に大学本体も東京から 移転させることになりました。私は通勤に大いに困り、それを機に自宅近くの和光大学に 転勤しました。その前後から原始技術史に関する仕事はいっそう多忙となり、東海大学の 理科教育に関わる非常勤も辞めましたが、それ以外でももう理科教育に関わるヒマは完全 になくなってしまいました。こうして私は表面上は技術史の範疇に分類できるような「原 始技術史」分野を誕生させ、それによって自分を科学史学会の中に割り込みましたが、研 究内容からいえば技術史というよりはいわゆる「実験考古学」といった方が合っているか もしれません。でもそれは、私にとってはどうでもいいことで、要するに研究者として自 分の位置を確保できればという目的は何とか達成されたからです。

              14.私は武士にあらず

 前から思っていた「たとえばなし」ですが、よくいわれるオーバードクターという身分 は、昔のチョンマゲ時代の話に出てくる「腕に覚えのある浪人」の立場に似ているのでは ないでしょうか。時代劇に出てくる浪人は、大名に仕えたいのに口がない。しかし何時で も仕官できるようにバイトをしながら常に武芸に磨きをかけ、仕官先を求め続けているわ けです。かたや現代での話ですが、大学院を出て学位をせっかく取ったのに就職できる大 学が無い。人からはオーバードクターと言われる。しかし何時でもどこでも大学に就職で きるように常に学問に磨きをかけ就職先の大学を探し求め続けています。
 そういう人たちは大学に就職する以前から学問を研究しているわけでして、たまたま大 学や研究所などの研究機関に就職すればそこで自分の専門研究を続け給料ももらうわけで す。そして大学を定年になって辞めても自分の本来の学問研究は継続してゆくわけです。 つまりその人にとって学問研究活動はその人の属性のようなもので、大学や研究機関に所 属している期間はたまたまの落ち着き先での長期滞在にすぎないのかもしれません。だか ら退職しても属性はその人に残って当然です。それはごく自然のことなのでしょう。
 それに対して私の場合は、腕に覚えも無いのに武士として迎えられ仕官がかなってしま ったというわけです。私にとって科学史の研究は決して私の属性ではないのです。私の以 前の職場を振り返ってみますと、最初はh中学教師・次がi雑誌編集者・それからj学術 団体の事務員・そしてk高校教師・次はl社会教育機関職員と次々と移っていきました。 そのどれをとっても特別の資格は不要でした。腕に覚えがなくても就職してから技術・技 能を身につけながら勤まった職場でした。世の中には医者・弁護士などのように特別の資 格をあらかじめ必要とする職業もあります。大学教師には一見そうした特別の資格は不必 要なのですが、学問研究をすることが言わば暗黙の前提になっています。私はたまたまそ うした職場に入ってしまったわけです。そこでどうしてもそれらしくしなければならなく なったわけです。それは昔の時代でいえば、武士としての訓練不十分の者が、何かのどさ くさで大名への仕官がかなってしまったようなものです。しかも私は武士として扱われて の仕官です。当方から意図的に誤魔化したわけではありません。相手側が当方にとって都 合のいい誤解をしてくれたというわけです。だから嬉しいけれど或る意味で気重なのでし た。ばけの皮が剥がれないうちに何とか急いで、しかしこっそりと腕を鍛え、周囲の人達 に気付かれないうちに、自分にはもともと腕に覚えがあったかのようにしてしまおうとい うわけです。じつは雑誌編集のときも何の経験もなかったのに人にはそれらしく見えるよ うにやってしまった経験があります。そのときと同じことをもっと大規模に実施するとい うことです。
 でも面白いと思ったのは、何とかやっているうち、他人の目には最初から或いはずっと 以前から学問研究をしていたかのように思われるようになってしまったことです。これま で意図的に人を欺こうと思ったことはないのは事実ですが、良い方に誤解されたなと分か ってもその誤解を無理に解こうとしませんでした。でも正直言って疲れた時もありました 。ただ年齢を重ねるにつれ無理をしないように、自分がなるべく疲れない方へと研究スタ イルも研究内容も変化させてゆきました。そしてもちろんやって楽しくなるような方向へ と向けてゆきました。そのようにして私は特に最後の10年間を楽しく過ごしてきました 。でもその間学会発表をしたり、論文を書いたりすることは義務としてやってはきました が、その行為自体ではさほどの喜びを感じない10年間でもありました。
 自分でも不思議なのは、物を作ったりするときだけは楽しいということです。特にさま ざまな難問を抱えながら、それを解決しながら工夫しながら物を作ってゆくという過程そ のものにはスリルがあって何とも楽しいと感じます。その経過の中にはたくさんの発見が あるわけですが、それらの諸発見は目的物の完成という形に結実するわけで、それで私は 満足してきたのです。そうした内容をあらためて文章で発表したいという欲求はほとんど 沸いてきません。発見した内容が完成品として物化したときすでに充分の達成感として昇 華してしまうからでしょう。
 考えてみますと、科学者とか研究者の喜びというのは研究し発見した結果を学会で発表 したり論文に書いたりした段階で得られるものなのかもしれません。そしてそれが社会か ら高い評価が得られたとき最高の喜びとなるのでしょう。しかし発明家の喜びはたくさん の工夫や発見を完成品として物化できたときなのです。もちろんそれが世間から評価され れば嬉しいのはいうまでもありませんが、かりにそれが無いばあいでも目的物が完成した ときの達成感はかなりなものなので自分一人でも喜べるのです。それが物作り人間の特徴 だと思います。だから私はタイプとしては科学者ではなくて技術者、いやそれより職人の 感覚に近いのではないかと思います。そういう私が職業人としては研究者ではなくなった のですから、自然のなりゆきとして、本来の職人にもどるということなのでしょう。それ が引退の理由だと思います。

              15.あとがき

 定年退職して多くの質問や激励を受けてきました。次は何を研究するのか、どんな論文 を書くのか、どんな著書を出すのか等々です。現在そういう通念があまりに普及しすぎて いるように思えてなりません。今後の私は物作りにともなう研究活動は一生続けると思い ますし、今後もエッセイは書くかもしれませんが学術論文は書かないと思います。それが 私の答えです。(2001年5月執筆)

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