エッセイ
ヒト進化の一断面            岩城正夫


              1.私の好み・物作り

 あるていど想像はしていたが、いざ定年退職してみると、やってみたいことがワッと押 し寄せてきた。他からではなく自分の内部から自分自身へ向かってである。
 でも、あれもこれも一挙にはやれない。一つずつやってゆくことになる。だから時間が かかる。ただ面白いと思ったのは、以前にも増して段取りを細かく計画し、焦らない自分 に気付いたという点だ。それと関連するが、することなすことが自分でも明確に自覚でき るほど個々の仕事が丁寧になっているのだ。年寄りは気が短いとよく言われるが、それは 疑問で少なくとも私には当てはまらないと思っている。
 それらやりたいことの殆どは物を作るということだ。なかに物作りでないことも幾つか 含まれる。それらは1日の或る時間帯を定めてその範囲を越えない程度で気長に継続的に やることにしている。一つは頭の働きに関すること、また別の一つは健康に関すること、 もう一つは芸術に関係することである。それ以外はすべて物作りである。
 そして、それら全てに共通して言えることは、どれも自分にとって面白く楽しいと感じ られることに限定していることである。楽しくないことはやらない。たとえば頭の働きに 関係することといっても頭を鍛えようというつもりはなくて面白いからやっているのだ。 健康に関することもそうで、身体を丈夫にしようとか健康を維持しようということが第一 目的ではなく、やはり面白いからやっていて結果的に健康につながっているのだと思う。 芸術に関することは言うまでもない。
 そして物作りとなると私の場合ほぼ無条件で楽しいから、気をつけないと時間を忘れて 何時までも続けてしまう恐れがある。でもさすがに徹夜だけはしなくなった。

              2.矢じり作りを例にとると

 数年前のことになるが、私は市民対象の大学公開講座で「石の矢じりを作ろう」という テーマでやったことがある。
 参加者は決して多くはなかったが高校や中学教師の受講生が目立った。そのなかの2〜 3人が言うには「黒曜石を入手したが加工の仕方がわからないのでこの講座に参加してみ た」という。おそらく世間にはそういう人はまだまだたくさんいるのではなかろうか。
 思い出すのは今から30年前、私が初めて矢じりを作ろうと思ったとき、学校理科教材 の鉱物標本の中から黒曜石を取り出して、それで矢じりを作ろうと思ったことだ。しかし 加工の仕方が全くわからず、いろいろ文献で調べたが肝心なところが今一つわからなかっ たので、試すつもりでさまざまに黒曜石を叩いているうち全て小さな石のかけらになって しまった。万事休す、であった。
 が、黒曜石は天然ガラスともいわれるように、その性質はガラスそっくりである。黒曜 石が無いのならガラスを使えばいいじゃないか、そう思った。それからまもなく、ガラス を使っての矢じり製作の練習を開始した。さらに茶碗や皿のかけらも利用してみた。それ らを材料に数えきれないほどの試行錯誤を試みた。いちいち数をかぞえていたわけではな かったが、おそらく数百個ていどの習作を試みたろう。そうしたなかから加工に関する幾 つもの発見があって、結果的には博物館に展示されている矢じりそっくりのものが作れる ようになった。その後、黒曜石・サヌカイト・フリント・チャートなどでも矢じりが作れ るようになった。作り方の基本はガラスの場合と同じである。しかし最初試みたガラスの 味は忘れられない。私はことあるごとにガラスの矢じりを作っては楽しんだ。
 あるときガラスで作った矢じりを人に贈呈したところ予想外に喜ばれた。それ以来、私 はガラスの矢じりを作って人に贈呈することを実行してきたが、しだいにガラスの矢じり はカラフルになり、いまでは黒・白・茶・青・緑・橙・赤など様々な色ガラスの矢じりを 作るようになり、それを人に贈呈して喜ばれている。
 しかし考えてみると、物作りというものはその行為自体が作者にとって面白いし、また 作者の喜びであるわけだが、その作品を受けとった人が喜んでくれることで作者の喜びは 明らかに倍増するのである。それはいったい何を意味するのか。それはもしかしたら人間 にとって本質的なことではないのか。それは人間研究という視点からみて興味深い現象の ように思われる。

           3.人間の本能にまで達したか?

 物作り作者は、私の実体験からいうと、作るという行為それ自体だけでも楽しいと思う のだが、それに加えて出来上がった作品を自分以外の人々に見せたとき、その作品を他人 が見て喜んだり評価してくれることで作者の喜びは明らかに倍増する。しかし反対に、自 分が面白いと思って作った作品が他人から喜んでもらえなかったりするとがっかりする。 まして他人から無視されたり、邪魔物扱いされたりすると、言いようのない淋しさ・孤独 感に襲われる。そういう心の動きはいったい何なのか。生得的なものなのか。
 つぎに物作り作者ではなく、自然科学者の場合で考えてみよう。おそらく科学者は研究 の過程・発見の過程そのものが喜びであるのではなかろうか。だから研究活動が辛くても 継続することが出来るのではなかろうか。そしてついに或る自然法則の発見にいたる。そ れは歓喜する思いだろう。しかも、そのことを知った世間の人々が感心してくれたり賞賛 したりしてくれることで発見者の喜びは恐らく倍増する。反対に自分の発見が世間の人々 から理解されなかったりしたらがっかりする。まして無視されたり、けなされたりすれば ひどい孤独感に襲われるのではなかろうか。つまりここでも恐らく物作り作者で見たのと 類似の他人との関係による喜びや悲しみがみられるのではなかろうかと思われる。
 そうしたヒトの心の動きは私には生得的な性質のように思えるので、あまり学問的とは いえないがここで私はヒトの本能という言い方を使って考えてみたい。
 人間のばあい、自然を観察するにしても、自然物を加工して道具を作るにしても、行為 の直接の対象は自然である。ところが、そうした行為の過程をよく検討してみると、いつ もそれは自分と自然との関係だけではなく、きっと第三者というか他人の存在をどこかで 意識していることがわかる。たしかに最初のうち自然を夢中で観察している最中は自分と 自然の関係だけなのだが、新しい事実を見つけたと思ったとたん、発見の喜びと同時に誰 に知らせようかと思ってしまう。
 物を作るばあいもそうで、物が完成するまでは夢中で取り組む。ところが完成したとた ん喜びと同時に誰かに見せたくなる。心がそのようにひとりでに動く。これはヒトの本能 なのではないか、私はそう思ってしまう。
 科学者や物作りに限らず、人間は他人を喜ばすことで自分の喜びを得るという本能のよ うな性質があるように思われてならない。自然科学者の発見や発明家の発明のように、直 接の働きかけの対象が自然や物であるばあいにかぎらず、直接、人間を対象としたばあい でも、他人を喜ばしたり楽しませたりすれば、それによって自分も喜びを得ることができ るのではないか。スポーツやさまざまな勝負を行なう選手・戦士たちがそうである。
 さらに、働きかける対象である人間ないし人間集団そのものを直接喜ばすことで自分も 喜ぶという行為もある。芸能人とはそういう種類の人達ではなかろうか。
 ヒト以外の動物のばあい、そのような心の働きはちょっと想像しにくいから、ヒトだけ に獲得されて本能なのではないか、などと思ってしまう。

            4.その心はヒトだけのものか

 しかし、そうでないのかもしれない。類似の心の動きがヒト以外の動物には全く見られ ないわけでもないのかもしれないのである。私がふと思ったのは盲導犬のことである。盲 導犬の行動を観察していると、かれは飼い主を先導し、飼い主の身を守っているわけだが 、そうした行為に対して飼い主がかれに感謝していることをかれは充分察知して喜んでい るように私には見える。盲導犬の喜び方は介護サービスにたずさわる人間の喜び方に近い のではないかと感じてしまう。そう表現したのはイヌは人間の言葉をしゃべらないから、 観察している私がそのように感じてしまっただけなのかもしれないからである。
 ところで、私はこれまで長い間にわたって小原秀雄さんからたくさんのことを学んでき た。特に哺乳動物の行動について教えていただいた。そのなかに「ヒトが動物と違う面は 多々あるがそのほとんどは動物たちにその兆し(萌芽)がみられる」ということがある。 道具の使用行動にしろ、言語の獲得にしろ、その兆し(萌芽的なもの)が動物にもみられ ることが知られている。
 となると私がここで問題にしてきたヒト特有の本能らしき心の動きについても例外では ないかもしれない。つまり、盲導犬の様子を観察してみると彼らは人間を喜ばすことによ って彼ら自身も喜んでいるように見えるのだが、それはもともとイヌが群の動物で固い絆 で結ばれた集団行動をしてきた野生動物の子孫であるということに関係があるのかもしれ ない。もしかしたら、群れの野生動物であるオオカミ・リカオン・ゾウ・チンパンジー・ クジラ・イルカ等の行動の中にも、詳しく観察すれば自分以外の他を喜ばすことによって 自らも満足するといったようなヒトと類似の心の動きの兆し(萌芽)が観察されるのかも しれないとも思う。ただ人間の場合、そうした心の傾向を恐ろしいくらいにまで発達させ 、まさに本能かと思えるほどにまでその性向は強まってしまっているように思える。
 現代社会ではそうした心の働きの面を全ての人たちが相互に自覚しあう必要があるので はないか。そうした自覚に欠けるなら現代のあらゆる行為、教育・政治・経済活動・芸術 ・芸能・スポーツなど、全てがうまく機能しなくなるのではないかと思ってしまうのであ る。この疑問に、小原さんの御意見をたまわればと願っている。
( 2001.8/30 )

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