フォーラム(道具学会主催−2007年1月13日)パネリストとしての講演要旨(配布したレジメ)
「心と道具」−−−−−−−−−−岩城正夫

 テレビのコマーシャルを見ていると「簡単だから」とか「便利だから」ということが最良の条件のように言われているのをみかけます。つまり、誰にでも簡単な操作であつかえる便利な機能をもった道具が一番だという意味でしょう。
 他方、道具を作る側、あるいはサービスを提供する側では「効率」がつねに求められています。それを実現するために、機械化・IT化・分業化が推進されます。
 「簡単」「便利」「効率」賛美の風潮は止まるところを知らず、これからも際限なく突き進んでいくように見えます。
 しかし他方では、そうした傾向に頼りきって生活する人たちの中に、老人でもないのに足腰の弱った人たちが現れてきています。身体だけでなく頭脳の弱った人たちも出てきているようです。生活に必要な「もの」や「こと」が完成品として販売されているため、自分の頭で考えること無しに日常生活ができるようになっているからかもしれません。
 足腰を鍛えるには歩くのも良いでしょう。また頭脳の衰えを防ぐにはクイズに取り組むのも良いかもしれません。でも私は物作りをおすすめしたいと思っています。それもプラモデルのようにすでに部品ができていて、それを組み立てればすむというような例よりは、材料から自分で選んで、自分で設計して物作りをする方がより活発に頭脳を刺激し手も複雑に使うことになるからより良いと思っています。
 物を作るという行為、例えば料理という行為をみても、それは頭脳と身体の総合的な行為で、経験者ならきっと頷かれると思いますが、料理はそれまで得た知識、経験を総合的に活用しながら、目で確かめ、鼻で匂いを、耳で音を確かめながら、手を使って作業することによって一つの料理は完成されるのです。しかも作業の間じゅう、とくに熱を使う場合など次々と変化を予測し、その結果を判断することの連続で、全プロセスがスリルに富んでおり、ある程度慣れてくると極めて面白く楽しい作業なのです。
 物作りが楽しいのは、私は子どもの頃から体験的に十分知っていました。最近では古代の摩擦発火法を楽しんでいます。その格別の面白さを持つ古代発火法がいったんは滅びてしまったのは恐らくマッチやライターの発明のせいでしょう。マッチやライターは火作りを簡単にはしましたが、ぞくぞくするような面白さ楽しさを消滅させてしまいました。道具の発達や発明にはそういう側面もあることを忘れてはなりません。
 そればかりではありません。便利な機械の発明はときに技能労働者の自己実現の機会を失わせてしまいます。ふつう技術史では産業革命の際、糸つむぎ機械スピンニング・ジェニーの発明によって糸つむぎ労働者が失業し、その不満が機械打ち壊し騒動に至ったという面のみが強調されます。しかし私が思うに、手による糸つむぎという熟練労働が不必要とされ、結果として消滅させられ、労働者の自己実現の機会が奪われ、自尊心が傷つけられたと思われます。それが機械打ち壊し騒動になったと思われます。蒸気船が発明されたとき手漕ぎ船頭による蒸気エンジンぶち壊し騒動が生じたのも同じ理由と思われます。
 発明によって消滅した楽しい手作業にはその他にもいろいろあります。ただしそれらの手作業はどれも決して効率的とはいえないでしょう。だから急ぐ生活には向きません。急がなくてもよい生活であるなら、楽しい手作業を復活させてじっくり楽しむことができるわけです。しかもそれらは身体と頭脳の総合的な作業なので、それを達成した当人には大きな達成感が得られるし、また結果的には頭脳や身体の衰えを防いでくれることにもなりえましょう。
 興味深いことに、スポーツの世界ではやたら便利な道具や機械の導入などせず、サッカーでいえば、ごく単純な道具(ボールなど)を如何に扱うかの技能つまり個人ワザが競われます。とうぜん、そこに自己実現の機会が存在しています。日本の剣術が平安時代いらい千年もの長いあいだ刀の形をほぼそのままに保ちながら、それを扱う技能の向上、つまり個人ワザの修練に努力が注がれた点もみのがせません。
 私のこだわる古代発火法でいえば、木の棒と木の板とを如何に摩擦させるかという個人ワザの修練によって、自己実現をしながら楽しむというわけです。
 とはいえ、機械化も分業化も現代ではどうしても避けることはできません。しかし、全てをそれに頼りきってしまうのは危険で、自分の内の得意分野を幾つか選んで、そこでは設計から材料集め、その加工、完成までを自分でやってみることが必要なのではないかと思います。
 そうした自律的な部分が自分の生活の中から一つもなくなってしまったら人間は自分の主体性まで失ってしまうのではないかと私は危惧しているのです。
 ともかく物作りは面白いばかりか楽しいのですから、主体性を失わないためというような消極的な意味からだけでなく、楽しさを求めるという積極的な意味からもお薦めしたいのです。ぜひみなさんも心掛けていただきたいと願っています。(2007.1/13)

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